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100年に一度というほどの未曽有の経済不況というが、政治の世界も100年に一度といってもよい程の奇妙な首相の存在と、政権政党、自由民主党のあり方が厳しく問われている。
麻生首相が漢字を読めないくらいは許容の範囲だったかもしれないが、郵政民営化に自分は反対だったような言を聞いていると、もはや唖然を超えて怒りに達し、怒りを超えて、絶望感すら覚えてしまう。まして(元)首相の森氏まで、あの郵政民営化に心から賛成していたのは小泉さんぐらいだという堂々たる発言を聞けば“政治家よ、あなた達は国会という立法府の中で全く無責任な態度をとって恥ずかしくないのか!と叫びたくなるのは小子だけではあるまい。後期高齢者医療制度の設立後、自民党の政治家達が“内容が難しくて分からなかった”と臆面もなく言っていたことを合わせれば、まさにこれ又、100年に一度の低級政治家たちと揶揄されて当然だ。政治家を信頼できない国民ほど不幸はなく、そのような国家ほど貧しい国家はなかろう。毎日のようにテレビの映像に映される麻生氏のへらへら顔はよく言えば何も気付かない人の良さと本人が言う楽天家。しかし本当は全く、己の評価も空気も分からない落点家というのが正しいだろうか。
世阿弥の書に“離見の見”という言葉があるが、自分の他にもう一人の自分を観ている自分の存在の重要性をいっている。冷静に己を観よということなのだろうが、こんな言葉に全く程遠い人が一国の最高ポストにいるのだ。また、自民党の国会議員達は党を守るために麻生氏を守るしかないというナンセンスな発言をしていることにも呆れてものが言えない。国民は自民党を守って欲しいなどと誰も思うまい。国家を守り、国民を守って欲しいというのが大多数の筈だ。政治家に風格も憂いも悲愴感もなくなった時、もはや一流国家はおろか三流国家にも劣ることだけは確かだ。
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