トップページ ≫ 未分類 ≫ さいたま市長選見聞録それぞれの錯覚と自己過信
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激しい選挙戦だった。しかし、この選挙ほど首をひねらざるをえない選挙はなかった。それは、それぞれの候補者達の自己評価の中味だ。
現職の相川氏が何故立候補したのか。昨年10月大病をして、立ち直ったばかりだ。通常あれだけの大病を2回も(3回という説もある)すれば立候補はしない。まして120万人を抱える政令市のトップの座なのだ。選挙戦も心身にとって厳しくきついのは言うまでもないが、例え首長に再選されたとしても超多忙な公務には耐えうることはきわめて困難なことと考えることは容易なことだ。
また、「6選ではない。さいたま市長としては3選だ。」と言い続けたのも正しいようで説得力がなかった。浦和市長を祖父の代から3代。しかもご自分は3期つとめたのだから、論理よりも感覚として市民は長期政権とみた。だからこそ民主党が唱えた”さいたまから政権交代を!”というスローガンは市民に充分訴える力となった。
そもそも、相川氏には本当のブレーンが見当たらない。ブレーンとは政策はもちろん、リーダー学や、人間学まで教示できるものでなければならない。桃太郎の教えは、ブレーン学の基本だと思う。忠実な部下の犬、知恵や企画に秀でた猿、情報力の雉をブレーンにもった桃太郎は最強のリーダーの姿そのものだ。
ゴマをするような人々で周りを固めたら、権力は音をたてて崩壊していくのは自明の理だ。不幸だった。”とにかく殿様でやりにくい”と公言してはばからない側近がかなりいたのには閉口した。また、敗戦の弁として「天命が下った」と氏は述べたが、はたしてそうか?天命は氏が病で倒れたときでなかったか。”今までにあなたはそれなりに良くやった。それなりの実績もあげた。だから、ここで休むことです。退くことです”天の声が聞こえなかったのだろうか。「政党主導の選挙にまきこまれてしまった。」かの言は、またまずかった。氏は無所属を表明しておいて、結局は政党に頼り、自民県連の推薦を受け、公明党の県本部推薦まで受けて戦ったのではないか。
本来の相川氏は、もっと違う良さをもっていたはずなのに残念だ。権力は人を全く反対の方向へ持っていく魔力を持っている証左だ。自己過信と錯覚という魔薬の要素まで持っているのが権力なのだ。
中森氏は、4年前の市長選で相川氏に僅少差で敗れた。善戦だった。これは相川氏対中森氏という1対1の選挙戦だったからだ。行き場のない反相川票がたまたま流れただけに過ぎないとも言える。1対1の選挙ではよく見られる現象で、罠に近い落とし穴のようなものだ。負けた本人が大きな錯覚をおこしてしまう。恐ろしいことだ。
日下部氏も、医者のメスでさいたま市を大手術しようとしたが、そのメスが有権者に鋭いメスと見られなかったのだから口惜しかっただろう。それにしても、日下部氏の聴診器はさいたま市民の本当の声をキャッチしそこなった感が深い。この人もまた、”政党選挙にまきこまれた”ような発言をしていたのだが、それ以前の問題ではないだろうか。
高橋氏はまたしても敗北。ある種有能な人だけに、何を考えていたのだろうか。不明である。
人は誰しもが自分自身に多少の錯覚と誤解を持って生きている。だからこそ、人の世の不条理に耐えられるのかもしれない。
例えば、恋愛も美しい誤解かもしれない。自己と相手に錯覚がなければ恋なぞというものに身を投じることはできない筈だ。まして政治家に立候補するなぞと言う所行は、大いなる錯覚と自己過信なくしてできないことだ。
だから楽しいのだ。だからお祭りだのだ。そして、必要悪に近い人間の業のようなものなのだろう。選挙はいつの世も、必ずといっていいくらい滑稽さを内包していることだけは確かだ。
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