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マニフェストが独り歩きしている。跋扈しているといってもよい。マニフェストはそもそも宣言とか声明の意味だ。政治家の公約は本来プラットフォームというべきだ。政治家の公約なんてほとんどあてにならないから、マニフェストという言葉が大手をふるっているのだろうか。それもおかしい。もし、拘束力の強い固い約束というならエンゲイジメントが正しい。そうであるにもかかわらず一億声をそろえてマニフェストをみてから、マニフェストを検討してからというのは、笑止だ。
東国原とかいう元お笑い芸人の人が、自民党につきつけたのもマニフェストだし、橋下さんとかいうタレント知事が、提唱したのも各党のマニフェストをみて知事会の支持政党を決めるといっていた。
そもそも宣言や声明をみただけで、どこの政党に決めるなぞという姿勢は軽薄そのものだ。極論を言えば目的のためになら宣言なんか、何とでもいえるではないか。何かを選ぶ選択眼は、表の看板だけというのは、最も危険だ。まず看板や宣言を掲げている正体や、その体質を観なければ大きな過ちを犯しかねない。
例えば、自由民主党という政党は、どんな立派なマニュフェストを提げてみても、その実態は今の時代に本当に対応していける政党なのか。もしかしたら古くさびついてしまっていて、いくらペンキを塗っても窓口を換えても、その屋台骨はほとんど適用しなくなっているかもしれない。人材も枯渇してしまって麻生さんにかわる人もいないではないか。民主党にしても、この政党が政権をとっても本当に官僚をつかいこなせるだけの力量があるのだろうか。怪しい。口に清潔を唱えても、党首2代にわたって政治資金でダーディさが浮きぼりにされてしまった。でも、立派なマニフェストだけは堂々とあげているのだ。
今、太宰治が再び脚光を浴びているのは、走れメロスにあるような人間の約束の尊さとむなしさからだ。約束の中でも公約は何よりも重いはずだ。公だからだ。マニフェストなぞという横文字ではなく、公約のために死するような政治家や政党が無ければ、民主主義なぞおめでたい話ではないか。
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