トップページ ≫ 未分類 ≫ 「坂の上の雲」の登場人物のこと―司馬史観とは?(1)
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先月末からテレビドラマ「坂の上の雲」が始まった。これを機会に「坂の上の雲」の主要な登場人物をさらってみることにする。但しこの小説とは必ずしも一致していないし、この小説には描かれていないことも含む。
ところでこのドラマのキャステイングについて。三人の主役秋山兄弟、正岡子規はいい。特に子規は香川照之以外に適当な役者を想像するのはむずかしい。だが児玉源太郎役の高橋英樹はいただけない。別に演技の良し悪しではなく単に年齢の問題。児玉がこのテレビドラマで初めて登場するのは陸軍大学校幹事としてだが、この時彼の実際の年齢は三十代半ば、そして没年は五十四歳。高橋は六十をとっくに超えている。もっと若い人がやるべきだろう。それに山縣有朋役の江守徹も問題。実際の山縣は、残されている写真からもわかるようもっと痩せていた。
放映が三年に分けて行われるのは多分予算上の制約からだろう。
小説という形式上やむを得ないが、司馬の小説は来年大河ドラマで取り上げられる「龍馬がいく」もそうだが高級講談と心得て読む方がいい。
ただし「街道を行く」、「この国のかたち」等の歴史エッセイではもっとまじめに(自分に誠実に)書いている。私はこっちのほうが好きだ。司馬は「韃靼疾風録」を最後に小説という形式から離れる。私はその理由を「見てきたような嘘」を書き自己と読者を欺くことに我慢できなくなったからだと解釈している。
司馬史観とは何ぞや?私は司馬史観などないと思っているが、強いて言えば小説における英雄史観、歴史エッセイにおける非英雄史観或いは唯物史観とやや矛盾した混交物だと思う。司馬の唯物史観と言ってもわからないかもしれない。例えば中国史で言えば漢帝国を頂点としてその後長い停滞があった理由として司馬は製鉄能力の低下を挙げている(鉄は戦にも農作業にも欠かせない)。なぜ製鉄能力が低下したか。それは燃料としての森林の減少のせいであるというのが司馬説。これを唯物史観(唯鉄史観?)と言って構わないと思う。
ただ唯物史観では人物を描く小説にはならない。小説では自ずから英雄史観にならざるを得ない。その一例をあげれば「坂の上の雲」では秋山兄弟(兄好古は騎兵隊指揮官、弟真之は聯合艦隊参謀)によって日露戦争に勝利できたと書いている。だが「明治という時代」の中では、秋山兄弟がいなければ代わりに誰かが彼らの役割を果たしたであろうと英雄史観を否定している。真之の代りになり得る人物としては佐藤鉄太郎をあげている。
それに司馬の日露戦争観は揺れ動いている。一方では「日露戦争までの日本の進路はよかった」と言いながら他方では「日露戦争は戦うべからざる戦争であった(「坂の上の雲」文庫本の後書)」と書いている。一方では「日露戦争は自衛戦争であった。もし破れていたら今頃私たちはロシア語を話していたであろう」と言いながら、他方では「五千万の稠密な人口(当時)をかかえめぼしい資源もなく、産業と言えば農業しかなかった日本本土にロシアは興味をもたなかった」と書いている。
日露戦争を深く理解するには「坂の上の雲」だけでは不十分で児島襄の「日露戦争」及び石光真清の自伝を読むのがいい。但しどちらも相当の大冊である。児島の「日露戦争」は絶版であるので古本屋で入手するか図書館で読むしかない。
正岡子規と陸羯南
彼の「柿食えば鐘がなるなり法隆寺」は有名だが、彼が実際に聞いた鐘は法隆寺ではなく東大寺だったとする説がある。もしそうだとすれば彼はそれを知ってて東大寺を法隆寺に変えたのだろうか。彼は当時東大寺横の旅館に泊まっており、この柿もこの旅館の庭にあったものらしい。
子規と陸羯南との交誼は麗しい。陸羯南がいなければ子規が文学史であれほど大きな存在となることはなかった。子規は、羯南の親友で外務官僚であった加藤拓川の甥に当たる。急に海外勤務を命じられた加藤が甥を羯南に託したのである。羯南は親友の付託に十分すぎるほど応えた。
司馬は「この国のかたち75『徳』」の中で羯南のことを書いている。
以下引用
論語の中でも朗々誦すべき名文とされる「以って六尺の孤を託すべく、以って百里の命に寄すべく、大節に臨んで奪うべからず。君子人か、君子人なり(泰伯篇)」の行(くだり)はあたかも羯南のために書かれたようである。 以上引用。これ以上の賛辞はない。
参考までにさっきの論語の口語訳を以下にあげておく。
幼いみなし子の主君を託することができ、一国の宰相を任せることもでき、大事に臨んで決して志を曲げない。こうした人物こそ君子と言える。
司馬のこの稿はそう長いものではないので是非全文熟読されることを勧める。尚ドラマでは佐野史郎が陸羯南を演じている。
ついでに子規の妹律のこと。彼女の人生は兄を看病するためだけにあったかのようだ。だが彼女なりの充実感はあったと思う。
秋山好古
日露戦争の陸戦の英雄として当然ながら大将にまで栄進し栄光につつまれて軍歴を終えている。
秋山の独創はそれまでの馬上で戦う戦士としての騎兵を、馬で移動する歩兵(変な言い方だが)に変えたことだ。秋山隊は敵騎兵と遭遇すると馬から下りて、当時まだ少なった機関銃で、サーベルで突進する敵騎兵を迎え討つ。敵はひとたまりもない。戦争はスポーツと違って「騎兵は馬上で戦わなければいけない」というルールはない。秋山はこの着想を、戦国時代織田徳川軍の鉄砲足軽が武田騎馬隊を殲滅した長篠の合戦から得たのではないかと私は考えている。陸軍大学では古今東西の戦史特に日本の戦史を教材としていたのだからそう突拍子もない連想ではないと思うのだが。弟の真之も瀬戸内水軍の戦法を深く研究していた。
好古は陸軍大将退役後、郷里松山の中学校の校長になる。日露戦争の英雄にして陸軍大将である。もっと条件のよい再就職先は軍需企業などいくらでもあったはずだ。こうした生き方は、世俗に恬淡としていた弟真之とも通じるものがある。
好古は無類の酒好きで戦闘中でも酒を放さなかった(当時陸軍にはまだそれを許すおおらかさがあったが日露戦争以後形式主義、官僚主義が急速にはびこる)。戦地満州では本国からくるわずかの清酒は部下に譲り自分は現地の高粱酒(白酒)で我慢していた。
秋山真之
日露戦争で戦争の悲惨を見て、人殺しを生業とする自分の生き方がいやになり何度も軍人を辞めて坊主になると言い周囲を手古摺らせている。それでも50歳で死の直前に中将になる。
彼が大本教の信者であったことは戦前ひた隠しにされた。日本海海戦勝利の立役者である海軍軍人が、不敬罪で弾圧された大本教に入信していたことは海軍にとってスキャンダラスなことであったから。
当時もし週刊誌があったら飛びつきたくなるネタであったころだろう。真之は正岡子規の親友であり最初共に文学をこころざしていたくらいだから軍人としては繊細すぎたのかもしれない。彼が宗教に魅かれたのも理解できる。
「聯合艦隊解散の辞」に伺われる豊かな文才と軍事的天才、この二つは一見矛盾しているようだが、実はそうではない。どちらも豊かな想像力を必要とするからである。シーザー、ナポレオン、T.E.ロレンス(アラビアのロレンス)、「出師の表」を書いた蜀の孔明、魏の曹操、わが日本史では他に「内府違いの条々(家康弾劾状)」を書いた直江兼続などが思い浮かぶ。
中国国民党幹部であった戴季陶に「日本論」という本がある。辛亥革命以後の日中関係史を知る上で有益な本だ。ここでは深い敬意をもって日露戦争後の秋山真之を描いている。
ここに描かれた秋山は軍人というより預言者の風貌を呈している。秋山は深い同情をもって辛亥革命以後の中国の前途を危惧していたことがわかる。
この本の中の桂太郎(日露戦争時の首相)の言い分がおもしろい。「清国がだらしなかったからロシアの南下を招き、日本はそれに脅威を感じ、いわば清国になり代わってロシア相手に国運を賭して戦った。それを中国から侵略者よばわりされるのは心外だ」
伊藤博文と山縣有朋
二人とも一応松下村塾で松陰門下ということになっているが師への思いは大分違う。
伊藤は松陰門下といわれるのを喜ばなかったという。松陰の伊藤評価は高くなったし伊藤もそれを知っていたからである。松陰は友人への紹介状で「周旋の才あり」と評価したのではなかったと意外に思われる人もいるかもしれない。だがこの評価には前段がある「この男『才劣り学幼きも』周旋の才あり」。全体として決して高い評価とは言えない。師の高杉晋作や久坂玄瑞の評価と比べれば一層はっきりする。この二人に吉田稔麿、入江九一を加えて松陰門下の四天王という。みな維新を見ることなく死ぬ。しかも畳の上で死んだのは高杉だけ。伊藤が初代内閣総理大臣になった時、郷里の人は「吉田稔麿が生きていれば初代内閣総理大臣は伊藤ではなく吉田だったろう」と囁き合ったそうである(吉田は池田屋事件に際し新選組の沖田総司に斬られた)。ここからも松陰門下に如何に人材が多かったか分かる。
伊藤にとっては松陰より高杉との関係が重要だ。高杉という天才の驥尾に付した幸運児と言えるかもしれない。高杉を記念する東行庵(高杉は西行をもじって東行と号していた)の高杉を称える碑文「動けば雷電の如く発すれば風雨の如し、衆目駭然、敢て正視する者なし」を書いたのも伊藤。
もっとも伊藤率いる力士隊が味方しなければ高杉の功山寺の挙兵は成功しなかったことだろう。劇作家の福田善之はその作品「維新風雲録-あばれ奇兵隊」の中で「伊藤が七十年近い生涯の中で為した最もいいことは、この高杉の挙兵を助けたことだ」と書いている。 だがこの評価はやや酷に過ぎる。伊藤が、師も評価した周旋の才を遺憾なく発揮したのは明治六年の政変。伊藤の働きがなければ岩倉、大久保らのいわゆる内治派は西郷らいわゆる征韓派に敗れたことだろう(内治派と征韓派という区分けには異論があるが別稿に譲る)。
伊藤は元々同郷の桂小五郎に引き立てられて世にでたけれど、外遊中から大久保の腹心的位置を占めるようになった。大久保亡き後伊藤が明治政府の中心になったのは自然の成り行きであった。
伊藤の大きな政治的業績の一つが明治憲法の制定。江藤淳は華麗な体系などともちあげているがまったく同意できない。大正末期から昭和にかけて国家意思は八岐の大蛇のように四分五裂するが、その根源は、どこに頭があるのか分からない明治憲法にある。この憲法は一見すると天皇親政、よくよく見ると透かし模様のように立憲君主制が浮かび上がるという二重構造からなっている。丸山眞男がいうところの「顕教(天皇親政)」と「密教(立憲君主制)」の関係である。昭和に入り「顕教」が「密教を」を圧殺したのが「国体明徴運動」。これによって「密教」としての天皇機関説(立憲君主制)は弾圧され天皇の神格化が進む。
あの憲法がどこに権力の中心があるのかわからない仕組みになったのは、憲法制定に先立ち存在した内閣総理大臣を規定しなかったことにも起因する。これは今でも憲法学者や近代史学者を悩ませている難問で定説はないが「内閣総理大臣が武士社会の征夷大将軍の如き存在となり天皇がないがしろにされることを恐れたから」という説が今のところ有力か。
昭和に入り軍部に政治を壟断する魔力を与えることになる統帥権について。
憲法起草者である伊藤の注釈書「憲法義解」の第十一条の項をみても「今上天皇(明治天皇)の御世になって、天皇がみずから兵馬の権(軍隊の指揮権)を執るわが国本来のあり方(これはフィクションであって史実ではない)に帰って喜ばしい」と言っているだけで、そのはらむ問題性に気づいている様子は窺えない。
もっとも明治憲法における軍に関する規定は、山縣らが作った既成制度を追認しただけという面があるので統帥権暴走の責任を伊藤だけに負わすことはできない。
伊藤は「俺の目の黒い中は少々の制度的欠陥はカバーできる」と考えていたかもしれない。現実には憲法に規定のない伊藤山縣ら元老が国家意思の統一を保つ役を果たす。だがそれでは人治であって法治ではない。師の吉田松陰が存命ならこの憲法に及第点をつけただろうか。
作家今東光に「毒舌日本史」という実におもしろい本がある。ここで山縣の、師松陰への思いを書いている。
幕末津軽に今東光のご先祖に当たる伊東広之進という知識人がいた。松陰は彼を訪ねてはるばる弘前まで来た。伊東広之進の子伊東重(今東光の叔父)がその時松陰が泊まった部屋を「偉人堂」と名づけて記念に残すことにし、地元出身の代議士工藤十三雄を通じて山縣に扁額を頼むことになった。山縣はその場で書くと言う。工藤が驚いて「え?すぐに書いていただけのですか」、山縣「不服か」、工藤「とんでもありません。山縣公に揮毫を頼んでも何年も待たされると聞いていたものですから」、山縣「師を待たせるわけにはいかないじゃないか」。しかも一切の肩書きをつけず唯「門下生有朋」とだけ。当時山縣は大勲位、公爵、元帥、功一級、従一位という人臣として最高の栄爵につつまれていたにも関わらず、師の前で自らの功業を誇るのを憚ったのだろう。
山縣は長州藩閥の権化のように思われているが、案外そうでもない。藩閥にこだわらず人材を抜擢している。軍医総監(中将相当)森林太郎(鴎外)、陸軍の制度規程を作った西周(にしあまね)はともに石見人(津和野)。優れた軍事技術者有坂成章も山縣が抜擢した人材。有坂は長州人だがただそれだけで登用したわけではない。
有坂は旅順で日本軍が苦戦していること聞きつけ、参謀総長山縣に進言する。「旅順要塞のベトンを破砕できるのは我が国では要塞砲しかありません。あれを移動して使うべきです」。山縣は「有坂の言うことなら間違いあるまい」と直ちに認可する。日露戦争の写真や映画で必ず登場する巨砲がそれ。あの巨砲を使わなかったら旅順陥落前に日本の戦力は尽きたかもしれない。
当時陸軍大臣は同郷の寺内正毅であったが、後年山縣は「わしが参謀総長、寺内が陸軍大臣だからよかった。もし逆だったら日露戦争は負けたかもしれない」と言った。
つづく
(ジャーナリスト 青木亮)
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