トップページ ≫ 未分類 ≫ ~総ナメ時代の特効薬は何か?~
未分類
どこかで誰かが誰かをナメている。子供が親をナメ、大人が社会をナメ、女が男をナメ、男が女をナメ、教師が教育をナメ、総理が国民をナメ、政党をナメている。そして、その政党も社会をナメている。
そんなわけで犯罪は多発し、取り締まる警察も追いついていけず、それどころか警察官の不祥事も後を絶たない。ナメ合っていると、どちらがどちらをナメているのかがわからなくなり、無感症時代を創り出す。ナメているな、ナメられているなという自覚があるうちはまだ救いようがあるが、全く鈍くなった感性では救いようがないのだ。
麻生さんが漢字を読めないのは単なる学力がないからだけではないのだ。読めないことに恥じらいも何もなく、読めなくても何てことはないと国民や社会をナメているその姿勢が大問題なのだ。国民が騒いでも、与党野党が騒いでも、どうせ彼らは攻めきる力なんかないとタカをくくっているのだ。
官僚も政治家をナメ、地方のことなんか全く目に入っていない。地方も掛け声ばかりで地方の自立に対して自覚も本気もないからナメられて諦めているのだ。身近な例としてさいたま市議会の一般質問は呆れてものが言えない。誰もこの厳しい時代の中での相川市長不在をも問題にしない。つまり、市民は気にしているのだが代弁者たる議会はどこを見ているのだろうか?こんなことだから役人にナメられる議員が数多出てきてしまうのだ。
県庁は県庁で、県庁の発行した文書が著しく誤解を招いたことに対しても、自らその間違いを認めながらも反省の形を出さないところにしたたかなナメの姿勢が浮き彫りになっている。
“地方の時代”が唱えられて久しいが、何といっても政治家たる議員が姿勢を出すことだ。100万人といえど我往かんの気概をもって行政をチェックし、市民に奉仕することだ。そのためには自らの定数を減らし有能なる人物が県会、市会に登場し、何ものにもナメられぬ議会を作る以外に特効薬はないのだ。
バックナンバー
新着ニュース
特別企画PR