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今日の産経新聞によれば渡部昇一先生が古代から現代に至るまで日本通史を刊行する予定とのこと。第一巻は既に配本済み。現代から過去に遡るというのも歴史物としては画期的なことだ。
渡部先生は英語学の大家ではあるが日本史の専門家ではない。私はそのことをとやかく言うつもりはない。歴史は豊かな想像力を要求されるから優れてジャーナリスト若しくは文学者の仕事だ。大学の国史科を出て古文書に埋もれていた人に歴史がわかるとは思えない。従って渡部先生のこの壮挙には大いに敬意を表する。気がかりなのは79歳とご高齢であることだ。徳富蘇峰に倣ってもう少し時代を絞り込んだほうがいいと思うがいかが。因みに徳富蘇峰は55歳から89歳まで34年かけて「近世日本國民史(信長から西南戦争まで)」を書いた。徳富蘇峰は勿論歴史学者ではないがこの蘇峰の業績を知らない歴史家はもぐりだと断言していい。
学校の歴史教育について
私は学校の歴史の授業も「渡部日本史」同様現在から過去に遡るべきだと思っている。先ず戦後史、次いで昭和20年までの昭和史、それから大正、明治史という風に教えるべきだと思っている。子供たちは聖徳太子や大化の改新、世界の四大文明は知っていても近現代史を知らない。某大学の一年生は日米が戦ったことを半数が知らなかった。これにはまだ落ちあって「それでどっちが勝ったのですか」という質問があったとか。だから近現代から過去に遡るやり方には大いに賛成だ。
学校の歴史で近代史をあまり取り上げないのにはいくつか理由がある。一つは近代史を論じることのできる歴史学者は少ない。例えば中世史がご専門の網野善彦先生の崇拝者は多いが彼が書いた通史はほとんど読むに値しない。世界大恐慌や金解禁を論じるにはある程度の経済学的素養が要求されるが中世の専門家の手に負えるはずがない。
もう一つ近代史を取り上げればどうしても政治的な立場が鮮明となり差し障りが多いという点もある。
話変わって、日本の従来の歴史学の時代区分はいただけない。縄文、弥生という区分は土器の様式による区分であり、更に、奈良、平安、鎌倉、室町、江戸という時代区分は政府の所在地による区分だ。このような時代区分が果たして学問の名に値するのか疑問に思う。
資料偏重主義の愚
そもそも歴史の資料が現代に至るまで残されているのは偶然の産物であって、しかもそれは人類の営みの0.001%程度であって残りの99.999%は想像力を働かせるしかない。偶然発掘された遺跡で覆されてしまうような古代史など学問の名にも値しない。
しかも資料は必ずしも真実を語っているとは限らない。日記を例に取ると、仮令公表を前提としないものであっても自分に都合の悪いことは書かれないことが多いし、真偽の定かでない噂があたかも事実であるかのごとく書かれることもある。資料偏重主義のバカバカしさはここにある。最近の例ではマッカーサー回想録は嘘が多くほとんど資料的価値がないことは多少近代史を知る人なら誰でも知っている。政治家や軍人が存命中に印税を稼ぐため出版するような回顧録に資料的価値を期待することはできない。
資料偏重主義と専門分野毎の細分化、こうした風土から通史を書く力量のある歴史家は生まれるはずがない。逆に通史を書くとあの人は学者ではないと学会では馬鹿にする傾向がある。おかしな話だ。
余談
最近歴女とかいう新人種が出現したのはご同慶の至りである。現代のアイドル(政治家等を含む)に満足できなくて過去にまで対象を広げたのだろう。だが彼女らを対象にテレビが戦国武将人気ランキングなどという番組を作るのはいただけない。戦国時代に限らず人はそれぞれ唯一無二の人生を歩んでいるので比較するのは無意味だからである。
(ジャーナリスト 青木 亮)
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