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以下は最近刊行された古田博司著「日本文明圏の覚醒」から
「モダンの人たちはバカにしてきたけど、これから多くの人に思想的インパクトを与えるような本を書くなら、エッセーか、ですます調ですよ。説得社会だから。大上段に構えて議論をふっかける形式では、もう相手に届かない」。
この一節を私なりに敷衍してみることにする。
論文取分け学術論文では内容においても形式においても完全性と整合性が求められる。だが元々私達は混沌とした情報の中に生きている。無理に完全性整合性を追求すれば、その過程で失われるものも大きい。不完全、不整合でもいいではないか。混沌を混沌のまま提示するエッセーの意味はここにある。自分だけで知を完結しようと力む必要はない。
「ですます調」は不特定多数ではなく特定の個人に向けたものだ。一人の個人を説得できなくて不特定多数を説得できるはずがないではないか。
肩肘張った論文では知的虚栄心から、素人にはわからない、知っている限りの語彙を駆使し、ことさら難解な表現に走る傾向がある。わかりやすい表現では学者の沽券に関わると言わんばかりだ。それに反し特定個人を説得する時は難解な言い回しを避け、できるだけわかりやすく話すはずだ。 といったところか。
考えてみれば孔子もイエスもそれぞれ論語、新約聖書という本を書いたわけではない。いずれも弟子達が師の言行と対話等を記録したものだ。内容はちっとも難しくない。
(キリスト教では聖書の諸言語への翻訳に力を入れており日本語訳に至っては口語訳と文語訳の二種あるほどだが、日本仏教界はなぜ経典(サンスクリット語を漢文に翻訳したもの)を日本語に翻訳しないのだろう(或いは既にあるかもしれないが少なくとも普及していない)。当人達は意味が分かっているだろうか?日本仏教は終に葬式仏教に甘んじるつもりか。私はよく「比叡山延暦寺を焼き討ちし僧侶を皆殺しにした信長の気持ちがわかる」と言って顰蹙をかっている)
ここからが本題。今はネット社会に入り、本(以下新聞雑誌等を含む)と読書のもつ意味が劇的に変化する過渡期にあると考えている。冒頭の古田説とも関連するが、もはや知的行為として本や読書を特別視する意味はない。
重要なのは何を読むか、誰と話すか、それを如何に自らの思想の血肉にするかであって形式(本、雑誌、ブログ(コメントを含む。質の高いブログはコメントの質も高い)、新聞、パンフレット、書簡、講演、対話)ではない。製本した「本」が特別の意味をもった時代は確実に終わりつつある。「趣味は読書です」という人が多いが、実は何も語っていないのに等しい。何を、如何に読むかが重要だ。
師の言行に触れることが最高の知的行為であって読書ではなかった孔子とイエスの時代に戻ると言い換えることもできるかもしれない。つまりネットの出現により文章を公表するコストがゼロになった今という時代が、本がなかった時代に近づくわけだ。しかもイエスは高々周囲の数百人に説くだけだったが、ネットでは誰でも世界の人に発信できるだけ現代人が恵まれている。
本が普及したことの意味はもとより大きかったが、それが一個のビジネスとなったことによる弊害も大きい。書店には「売らんかな」の際物(きわもの)本が氾濫している。例えば現代日本では自己啓発という一種の新興宗教がはびこり、その類の本が随分売れている(書店に自己啓発というコーナーがあったのには驚いた)。新興宗教の例にもれず儲かるのは教祖様だけで信者はひたすら貢がされている。
「年収が~倍になる方法」、「FXで月100万円稼ごう」といった本が多いが、実は本当に儲けている人は出版社など相手にせず手間のかかる本を書いたりしない。
「文章を公表するコストがゼロになる」ということはビジネスとしての出版(新聞雑誌を含む)が成り立たなくなることを意味する。この事実を認めたくない既存のメディアはネットの匿名性を問題視し、情報の信頼性に疑義を呈し、傲慢にも「大衆はニュースバリューを判断できないから私達が代ってニュースを取捨選択し重要度を教えてあげます(新聞の場合、このニュースは一面トップ等)」と公言する。
映画「市民ケーン」に新聞の役割を象徴するシーンがある。社主のケーンが「このニュースは一面トップで扱え」と言う。編集長が「これはそんなに大きなニュースですか?」と疑問を呈する。ケーン「大きく扱えば大きなニュースになるのだ!」。
だが新聞にとってこうした古きよき時代は確実に去りつつある。ブログ(日本語に限らない)、CNN、BBC等で世界中のニュースをリアルタイムで見ることができる今の時代、日本の新聞にニュースの重要度を教えてもらう必要は更々ない。当電子新聞の拙文「新聞の偽善」参照。
匿名性に関して言えば、実は著作権を主張しないという非常に重要な反面がある。日本の著作権法及びその運用は世界一厳しく表現の自由の障害となっている。匿名情報は著作権法の規制を無にするものとして大いに評価できる。これからはオープンソースとしてのリナックスに象徴される、匿名情報を含む集合知が重要になる。
雑誌のこと
月刊週刊誌とも随分傲慢な形式だ。「読者は今何が重要なテーマであるか、誰がそれを論じるのにふさわしいか知らないでしょう」と暗に言っているからである。
その結果読みたい記事は一つしかないのに玉石混交のワンパッケージを買うしかない。例えば文藝春秋。私が読むのは連載の「昭和天皇(福田和也)」だけだが(これだが玉で他は石、以前の「週刊文春」なら高島俊男先生の「お言葉ですが」だけが玉)、これだけのために770円払う気はならない。どうぜ単行本として出るからその時買えばいいと気もある。このような雑誌が消えつつあるのは当然のことだ。
ところで雑誌がなくなるのをどうして「休刊」というのだろう?復活する可能性は皆無だから「廃刊」と言うべきだ。言論人たるもの事実から目を逸らしてはいけない。
(ジャーナリスト 青木 亮)
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