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戦後諸々の制度改革があったが、その中でも学制改革がもつ意味は大きい。
取分け大学進学率が、旧制中学進学率を遥かに凌ぐ50%前後に達した今エリート教育機関としての大学の地位は大きく揺らいでいる。
少子化に向かう中、自分達の天下り先確保のため大学新設を安易に認めた文部科学省の罪は重い(ところで省庁再編成によって律令制以来の「大蔵」はなくしたのにどうして「文部」は残したのだろう? 文部科学省などまるで木に竹を接いだ名称だ。どうして教育科学省にしなかったのか)。
教育の内容
大学進学率がおよそ50%という事実から禄に高校、中学の教科を理解していない大学生が多数存在することは容易に想像できる。大学一二年を高校までの復習についやす大学は論外として教育内容を実学中心に変えるべきだ。兵隊候補に将校用の教育をしても仕様がない。
大学に限らず日本の学校教育ではもっとも金利、クレジット、ローン等の金銭教育をすべきだし、日本語、英語教育は小説詩等文学に偏りすぎている。学校教育は小説家を育てるためにあるわけではない。そもそも小説家は教育によってできあがるものではない。
国語の大学入試ではそれを書いた当の作家でも答えに窮するような奇問がある。国語の試験は漢字の読み書き問題だけで十分だと思う。採点に主観が入ることもない。
日本の学校教育は知識の詰め込み、暗記に偏り過ぎている。マイケルサンデルの「正義の話」があれだけ売れるのはなぜだろう? 彼が設定する問題には必ずしも正解はない。 問題は正解か不正解かではなく、どれだけ相手を説得する論拠を組み立てられるかどうかだ。実社会でも同様に正解がある問題は少ない。更に言えば何が問題かを発見する能力こそ最も重要だ。マイケルサンデルの本が売れ、その講義に学生が殺到するのは問題を発見するスリル、説得力ある論理を組み立てる知的冒険心を刺激されるからではないだろうか。
日本の大学で行われているのは「哲学」ではなく「哲学」学だ。つまり先人の言葉の引用が多く退屈窮まりない。フィロソフィーの意味は「知を愛する」ということ(同様にフィルハーモニーはハーモニー(調和)を愛するという意味)。だから初めフィロソフィーは「愛知学」と訳された。これを「哲学」としたのは明治の大知識人西周(にしあまね)だが、もう一度「愛知学」に戻すほうがいい。そうすればマイケルサンデルの授業こそフィロソフィーだと腑に落ちるだろう。優れた知識人はみな生きている現実と向きあう中で自らの理論を構築したのである。当時の現実を捨象して彼らの片言隻句を論じるのは意味がない。同様に今の現実に向き合うことこそ哲学の使命である。
水増し偏差値の問題
多くの私立大学では学生数を確保するためと偏差値を嵩上げするためAO入試、推薦入学を増やし、一般入試枠を減らしている。企業は大学で何を学んだかではなく、某大学入学力を問題にする。偏差値が当てにならないとなれば、将来就職面接で「AO入試、推薦、一般入試」の種別を問われるかもしれない。
学歴ロンダリング
この言葉はマネーロンダリングをもじった新語である。いわゆる一流大学に入れなかった学生が一流大学の大学院に入ることで一流大学卒業の肩書きを手に入れること。ところが大学院の実態は例えば東大でも一部の学科では(柏キャンパス等)定員確保に苦労しているため実質無試験に等しい。企業のリクルーターはこうした実態を知らない。
先進国中GDP比最低の高等教育予算
小泉さんが首相就任時演説で「米百俵」の故事を引き、世間の喝采を浴びたことがある。「米百俵」の教訓はたとえ苦しくとも教育予算を減らしてはならないということだ。ところが小泉内閣もその後の内閣も一貫して教育予算を減らしている。小泉さんはどういうつもりであの故事を引用したのだろう。
大学教員の質
小中高の先生になるのは大学以上の学歴が要求されその上試験がある。ところが大学教員にはこうした条件が一切要求されない。現に大学を出ていない東大教授もいる。私の見るところ今の大学の先生の9割は高校程度の授業をする能力も覚束ない。
(ジャーナリスト 青木 亮)
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