トップページ ≫ 地域情報 ≫ さいたま史 ≫ さいたま新歴史考~武蔵国汚名論(3) 小林 耕
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朝廷の締付けはそればかりではなかった。645年(大化元年)の翌646年、大化2年1月1日に発せられた改新の詔(みことのり)の中で、初めて防人(さきもり)が置かれることが定められ、これも東国の重荷となった。
本格的には、唐・新羅との白村江の戦いにおいて日本軍が大敗した翌年664年に、対馬・壱岐・筑紫国などに防人とのろし台が置かれ、唐・新羅の侵攻に備えた時からであろう。
防人は何度か停止があったが、755年をもって廃止された。しかしその間の防人の多くは武蔵を含む坂東諸国と、信濃・駿河・遠江(とおとうみ)の東国から徴発された。通説では、東国がとくに重んじられたのは、東国防人が勇敢であったためである、といわれている。
しかし、755年に筑紫に派遣された東国防人の歌を『万葉集』巻20に見る限り、勇敢な兵士が進んで任地へ出発したとは思えない。例として、以下4首を見ていただきたい。
上総の防人の歌
わが母の袖持ち撫でてわが故(から)に泣きし心を忘れえぬかも
[出発にあたり、母が私の袖を持って私を撫で、泣いていたその心は忘れられるものではない]
下野の防人の歌
ふたほがみ悪(あ)しけ人なりあた病(ゆまひ)わがする時に防人にさす
[全く性格の悪い薄情な人だ。私が急病になった時に防人にさせるとは]
信濃の防人の歌
韓衣(からころも)裾(すそ)に取りつき泣く子らを置きてそ来(き)ぬや母(おも)なしにして
[出発する時に、私の裾に取りついて泣いていた子供たちを置いて来てしまった。あの子らに母もいないというのに]
武蔵の防人の歌
足柄(あしがら)の御坂(みさか)に立(た)して袖振らば家(いは)なる妹(いも)は清(さや)に見もかも
[足柄山の坂に立って袖を振ったならば、武蔵国の家にいる妻にはっきりと見えるだろうか。坂を越えたらもう武蔵国も見ることはできないのだから]
以上の4首の例ではあるが、他の多くの東国の防人の歌と合わせてみても、私には彼らが個人的事情も考慮されず、一方的に防人として強制連行されていったように思われてならない。
このような過酷な状況に追い込んだ武蔵国に、好字があてられたとは考えられない。それに好字であれば、多少なりともその由来の伝承があっても良さそうである。それが全く不明であるということは、大きな謎であり、なんらかの知られたくない事情が存在するのではないかと考えるわけである。
その事情というのは、武蔵国をはじめ、東国の諸国が過去において朝廷に敵対した事件が発生していたのではないかということである。その事件により朝廷は苦(にが)い経験をした。その結果東国を警戒し、弱体化策をとり続けたのではないかと思われる。
ということは、その事件の有無がはっきりすれば、朝廷の東国対策の目的も明らかになる。また、武蔵国における国名表記の謎も解けてくる。そうすれば、私の武蔵国汚名論の正否の答えもでてくることになるのである。
私は事件が存在していたとみている。その手掛かりは、埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の国宝の鉄剣に刻まれた、金錯銘文(きんさくめいぶん)の文中にあった。(おわり)
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