トップページ ≫ 地域情報 ≫ さいたま史 ≫ 国宝金錯銘鉄剣の銘文から古代を読む ① (全3回) 小林 耕
地域情報 …さいたま史
2013年11月13日に、1968年に埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣(きんさくめいてつけん)が、東祥剣研師らの手によって、7年がかりで再現され、埼玉県庁で披露された。
この鉄拳は長さ73.5センチメートルで、1978年に115文字の銘文が金象嵌(きんぞうがん)[刻んだ文字に金をはめこんだもの]されていることが確認された。
私が注目したのはその銘文で、表の「辛亥年七月記」[辛亥(しんがい)の年の7月に記す]の6文字と、裏の「獲加多支鹵大王」(わかたけるおおきみの時)の8文字である。
稲荷山古墳は全長120メートルの前方後円墳で、5世紀後半の築造とされるから、「辛亥年」は471年ということになる。
そしてこの年号こそ、私の古代史におけるもっとも重要な基準点である。また国宝の金錯銘鉄剣に銘文が刻まれてなかったならば、日本の古代史は事実と程遠い神話の世界からいつまでも脱出できなかったであろうと思われる。
金錯銘鉄剣が国宝となっていることから、その鉄剣がにせ物ではなく、また銘文にも改竄(かいざん)された形跡もないことから、一級の資料である。つまりこの銘文は信頼できるというわけである。
そうなると、この金錯銘鉄剣の裏に刻まれている「獲加多支鹵大王(わかたけるおおきみ)」という人物は、実在人物ということになる。
この事を裏付けるのが、稲荷山古墳と同じ5世紀後半に築造された全長47メートルの前方後円墳、熊本県玉名郡の江田船山古墳出土の銀象嵌大刀の銘文である。
銘文は75文字で刻まれていて、その中の「治天下獲□□□鹵大王世」の文字は、ほぼ「雨(あめ)の下治(したしろ)しめすワカタケル大王の世」と読まれている。
古墳築造が同時代であることと、天下を治める「大王」が何人も存在することは考えられないことから、江田船山古墳出土の銀象嵌大刀の銘文中の人物は、金錯銘鉄剣の大王と同一人物と考えられるわけである。
ここまではほぼ異論なく納得される見解であることは、これが通説であるからだ。しかし、これから先は、かつて一度も明かされなかった古代史の扉を金錯銘鉄剣の「大王」の2文字が破ることになるのである。その威力があってこそ、国宝の中の国宝といえるのである。
一般的にワカタケル大王は、第21代雄略天皇に比定されている。それは天皇の御名が、大泊瀬幼武尊(おおはつせのわかたけのみこと)で「ワカタケ」の同音と、在位456年から479年ということもあり、同時代に存在していたということが根拠になっている。しかし実在は証明されていない。
ちなみに初代神武天皇から49代光仁天皇までの全て漢字2文字の天皇名は、8世紀の学者淡海三船(おうみのみふね)[722-785年]によって、中国の古典から選び出された漢字により定められた。これを漢風諡号(かんぷうしごう)といって、亡くなったあとにおくられる称号である。
また「天皇」という称号は、672年の壬申(じんしん)の乱後の天武朝時代の官営工房のあった奈良県明日香村の飛鳥池遺跡出土の、約8000点にも及ぶ出土の木簡の中に始めて現われるのである。
その木簡(木札に文字などを書きしるしたもの)には、丁丑(ひのとうし)の干支(かんし)が書かれていて、それは天武天皇6年(677)の年である。そこに「天皇が露を聚(あつ)めて弘(ひろ)く」の文字が書かれているのである。これ以前に「天皇」という称号は、日本はいうまでもなく、日本以外の、中国王朝・高句麗・新羅・百済においても、その使用例は一切無いのである。
では日本の国王の称号は何か、ということになる。正式には倭国王であり、『後漢書』<倭伝>[432年成立]では、大倭王の両称号を使っている。省略して倭王ということもあった。(つづく)
バックナンバー
新着ニュース
- エルメスの跡地はグッチ(2024年11月20日)
- 第31回さいたま太鼓エキスパート2024(2024年11月03日)
- 秋刀魚苦いかしょっぱいか(2024年11月08日)
- 突然の閉店に驚きの声 スイートバジル(2024年11月19日)
- すぐに遂落した玉木さんの質(2024年11月14日)
特別企画PR