トップページ ≫ 地域情報 ≫ さいたま史 ≫ 国宝金錯銘鉄剣の銘文から古代を読む ③ (全3回) 小林 耕
地域情報 …さいたま史
武は上表文に高句麗が倭国の入朝を妨害している、と宋朝に訴えているが、『三国史記』[高句麗本紀]の第20代長寿王(在位413―491年)の時代に、一文たりとも倭国関連の記述はない。
それに武が高句麗と非難しても、兄興が462年に任命された安東将軍号は外臣の将軍号では11位中下位から2番目の10位の地位である。これに対し翌463年に長寿王が授与された将軍号は車騎大将軍で、上位の第3位の地位である。その国力から考えて高句麗との抗争は考えられず、武の長寿王の高句麗非難は事実無根で正当性がない。
しかし武は、468年に兄より一階級上の第9位の安東大将軍と、念願の倭国王に任命されたのである。どうにか使者が出せたのだ。
以上のことから、我が国の最高権力者は、中国王朝により任命された倭国王であることは、もはや疑いのないところである。それは57年に倭国王が任命されてから、478年に武が任命されるまで、倭国王の王統が継承されていたことを意味するものである。
ところが国宝金錯銘鉄剣の銘文は、ワカタケル大王の実在を示している。考えられる可能性は只一つ、大王と倭国王が我が国において両立したということである。この説はかつて一人として言及していない。しかしこれは事実である。その証拠品として、第三の国宝に登場していただくことにする。
それは和歌山県橋本市の隅田(すだ)八幡神社の所蔵であった現国宝の人物画像鏡である。直径20センチメートル弱の銅鏡で、外縁に48の借音文字が鋳造されている。日本に文字が伝来し使われはじめたころの金石文の一つとして貴重視されている銅鏡である。
私はまたもやその銘文に注目した。その銘文の漢字を一般的に読むと、「癸未(きび)の年8月、日十大王(おおきみ)の年、男弟王(おおどのきみ)が意柴沙加宮(おしさかのみや)に在(いま)す時、斯麻(しま)が長寿を念じ、開中費直(かわちのあたい)と穢人(えひと)の今州利の二人の等(ともがら)を遣わして、白上銅二百旱(かん)を取って此の鏡を作った」となる。
この銘文中の「斯麻(しま)」という人物は、百済国第25代の武寧王(在位501―523年)のことである。
それは1971年に朝鮮の公州地方の宋山里の武寧王の墓から出た誌石により確認することができる。誌石には「寧東(ねいとう)大将軍、百済斯麻王(しまおう)。年62歳。癸卯(きぼう)年5月丙戌朔(へいじゅつさく)7日壬申(じんしん)崩じ・・・」と刻まれている。
没年の癸卯は523年で、『三国史記』<百済本紀第四>の武寧王23年(523)の5月に王が亡くなったことが記録されていて誌石の文に一致していることから、「斯麻」は武寧王で間違いない。
となると人物画像鏡の癸未の年は、502年に決定される。そうなれば男弟王(おおどのきみ)は当然男大迹尊(おおどのこみと)で、後の26代継体天皇に比定せざるを得ない。継体天皇は507年に即位するが、大和に入るのはそれから20年後の526年の9月である。
つまり継体天皇は国内の王位には就いたが、倭国の本拠地には入れなかったのである。ということは、大和には強大な勢力を持つ氏族が存在していたとみるべきであろう。
その氏族の王が、人物画像鏡にその名の残る「日十大王」である。このことから「日十大王」は「ヤマトの大王(おおきみ)」と読むべきである。
倭の五王の4代目興の時代末頃から頭角を現わしたワカタケル大王の王統は、倭国王の王統の別系統で、金錯銘鉄剣の銘文にある、辛亥の年の471年以降、両王統が倭国内において両立していたことを人物画像鏡の癸未の年の503年とヤマト大王の存在により確認することができた。
しかしながらいまだ大王家の実態と、ワカタケル大王とヤマト大王が歴史上のどのような人物であるかを明らかにしていないので、次はその人物像の解明に進むことにする。(おわり)
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