トップページ ≫ 文芸広場 ≫ 県政の深海魚(2)「女のたくらみ」
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H市は古い町だった。江戸の昔から材木が盛んだった。
そのH市の周囲を舐めるようにN川が流れていた。H市の材木は筏で江戸まで運ばれた。N川は重要な経済的水路でもあった。
その中継の場として花街がひらけた。舟頭、山主、そして材木の商人達も夜を楽しんだ。
一夜の恋が生まれたり、身を切るような別れもあった。
芸者衆の数も百名はくだらなかった。昼間から粋な三味の音が黒ベイを越えて伝わってくるのが日常だった。
織物も栄えていた。
自然、旦那衆が多かった。
その旦那衆にとって政治は色事と同じように楽しかった。
議会が午前中で終わる時も頻繁にあり、昼間から芸者衆をはべらして豪勢な宴が開かれた。財布を馴染みの芸者に預けて遊ぶのも男達のステータスの一つだった。
市議会議員二期の信濃春彦はH市ではただ一人、地元生まれではなかった。旦那衆とは程遠く、暴れ駒のように、その行動は荒かった。H市の将来を真剣に考えれば考えるほど、旦那衆とは距離ができた。「あの若造が」「あの理屈屋が」「地元でもないくせに」古い街ではそんな陰口が大手をふるって囁かれた。
古井戸のようになってしまった古い保守系の議員にとって信濃春彦は邪魔な存在だった。
「あいつさえいなけりぁ、議会も円満にいくのによ」。日本酒の杯を傾けては春彦の悪口を言うことこそがH市の正義のように錯覚している議員が殆どだった。
ただ、いざ議会が始まると春彦にはお世辞を言うのが常だった。「何たって信濃さんは勉強してるからかなわねえよ」「まあまあ、お手柔らかに頼みますね」「とにかく将来がある人なんだから―」春彦はそんなお世辞をせせら笑って聞いていた。
―負けやしないぞ、俺は俺の理想のために全精力を賭けるんだ!
春彦は自分自身に言い聞かせながら「勉強こそ力だ」という事を信じ込んで生きてきた。
民主社会主義協会の会員になって保守系でありながら、ヨーロッパの民主社会の理論を夜を徹して学んだ。
春彦の馴染みの料理屋「若龍」はその花街のちょうど真ん中にあった。
女将は元芸者だった。七十を過ぎていても充分な女の色気のようなものが漂っていた。
「若龍」の宴席は、議会運営委員会のご苦労さん会だった。
議会運営委員会は議長を補佐しながら、議会の運営を司どる最も重要な委員会だ。
中央の主席に、若い三十一歳の春彦が座った。
春彦はすでにこの委員会の委員長だった。
保守の古手からは煙たがられていたが、議会運営の術を熟知していて革新系議員への対抗策としては貴重な存在だった。
他の六人の議員は、春彦の二まわりも三まわりも年上の議員達だった。春彦が上座に居ること、そのことだけでも男達の嫉妬の渦巻く場となった。
市長の西川が春彦の隣に座った。西川は不満だったが、議会運営委員会にはとりあえず頭を下げなければならなかった。重要な予算を通してもらわなければならなかったからだ。
当然のこととして、芸者衆がはべった。五人だった。
千代菊が全てを仕切った。
西川はまず、春彦に酒を注いだ。芸者より先に注ぐのには訳があった。どうしても例の道路予算を通してもらいたかった。議会で最も鋭く、この予算を突いてくるのは春彦だと分かっていたからだ。
「委員長さん、いろいろありましたが、とにかく宜しく頼みまさぁ」
西川は、この春彦が苦手で苦手でたまらなかった。そして腹の底ではいつも、「奴さえいなけりゃなあ」と嘆いていた。西川は苦手を越えてこの春彦が嫌いだった。
「生意気な若造」というのが西川や山崎、小田をはじめとしたH市の重鎮の共通の思いだった。
「市長、酒じゃだまされませんよ。あの予算はどう見ても不可解な予算ですよ。裏に何かあるんじゃないですか?」
春彦はストレートに言った。そんなところが春彦の青さだった。
西川は急に不機嫌になった。そこへ、千代菊が割って入った。
「おやまぁまぁ、相変わらずね。春さん、春さん、頭いいんだから。もっと市長を許してやってよ。ねぇ」
高価な着物の裾をチラリと見せて、千代菊得意の作り笑いを春彦に投げた。妖艶な女の色香が漂って、若い春彦の心も微妙に揺れた。
外は夜桜が揺れていた。
花冷えだった。
風は寒気を含んで冷たかった。
春は誘惑という言葉がピッタリの季節だ。来たかと思うと、また冬の方へ逆戻りをさせてしまう。襟を立てると又、春の香りをそこはかとなく運んでくる。冬への未練を残しながら、春はズル賢くやって来るのだ。
春彦は散っていく夜桜の花ビラの一枚一枚をおぼろげに眺めていた。寒風に吹き去らされて散っていく花びらに、ものの哀れを感じていた。
だが、どうしても、枝にじっとくっついて決して散らない数枚の花びらに、目を惹きつけられていた。
妖しげに揺れ、妖しげに散っていく花と、敢然として落ちない花もあるのだと妙な感慨に耽っていた。
三時間余りでその宴は終わった。
席を立とうとした春彦に、千代菊が声を掛けた。
「ねえ、春さん、隣に座敷を取ってあるから二次会でもやらない?」
こういう時の千代菊には必ずといっていい程、ある下心と狙いがあった。
二十代や三十代の女には見られない体全体から発する妖しいばかりの魅力と色香が、時には男をたまらなくした。
「市長の金でなければ、ちょっとだけ付き合ってもいいよ」
春彦は金に対して潔癖過ぎるくらい固かった。
狭量と言われてもその姿勢を崩さなかった。
「もちろんよ。さあさあ、いらっしゃいよ」
千代菊は、猫のように春彦の体に身を寄せた。
一人の若い女が待っていた。
「誰?」
春彦は怪訝な顔をした。
二十五、六歳だろうか。色白で白魚のような透きとおった手が印象的だった。
「はじめまして。華美と申します」
その女は物静かだが明るい声で言った。
「今夜は女二人と春さんだけよ」
意味ありげに千代菊が言った。
華美はどこかに、置いてきた過去があるような翳りがあった。でも美貌はたいしたものだった。
華美が三味を弾いた。
千代菊が舞った。佐渡おけさがこんなにも色っぽい踊りだったとは知らなかった。千代菊の姿態がしなやかにくねる。
千代菊のそんな姿を見つめながら「この女は余程好色多淫なのだろうな」と春彦は心の中で呟いた。
(つづく)
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