トップページ ≫ 文芸広場 ≫ 県政の深海魚(3)「市長の女・前編」
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「ねえ、春さん。今日はちょっと聞いてもらいたいことがあるの。ねえったら」
千代菊は熟れた身体を春彦にすり寄せた。
「うちのこれさぁ」と千代菊が親指を立てた。
「春さんも知っての通り、あんまり頭良くないのよ。昔、県会議員をしていた時も、あたしがこれに頼まれて、県会のボスの柿田先生のところに行ったのよ」
「何しにだい?」
春彦はその意味が分からなかった。
「あれよ、議長よ。県会の議長になりたくって二百万ばかり持たせられて、挨拶に行ったのよ。そしたら柿田先生ったら、『馬鹿野郎!あんな山猿を二百万円で議長だって?出直して来い!』って怒鳴られちゃってさ。又、翌々日、三百万円持ってたの。そしたら『しかたねえなぁ、まぁ、わかった、但し一年やらせるかどうかは別だぞ』と脅かされてさ。でもおかげで県会議長になれったってわけ」
春彦は内心驚いていた。
―― 県会ってそんなところか・・・ふざけたところだな・・・。と思うと怒りのようなものが込み上げてきた。社会正義には程遠いところだな・・・。
春彦の書生っぽさが、鎌首をもたげていた。
呆れ果てて春彦が言った。
「馬鹿馬鹿しいな。一体それが何だって言うんだい?僕には関係ないんじゃないか」
春彦は思わず腰をあげた。
「全くぅ、春さんたら、すぐ怒るんだから。待ってよ、その後があるのよ。聞いて」
「一体、何なんだよ?本当に」 春彦は憮然としていた。
「違うの。うちの、これがさ、いつも言ってるのよ『俺のあとは信濃春彦に譲ろう』って。意外と春さんを気に入ってるのよ。だから、もう少したったら春さんに市長の座が来るのよ。あたしが担保よ」
千代菊の鼻の内側が少し震えているのを春彦は見逃さなかった。女の鮮やかな嘘だと、春彦は直感した。
「ちょっと、華美ちゃん、春彦先生とスナックでも行って二、三曲歌ってきて」
春彦が断る間もなく、千代菊は二軒隣の「武蔵」というスナックに二人を押し込めた。
「武蔵」には五、六人の酔客がいた。春彦と華美の姿を見て「よっ!ご両人!」と卑猥な声を張り上げた。
春彦は華美に誘われるまま、一番隅のソファーに座った。
「私、大阪から出てきたんです。OLをしてたんですけど、ある人と恋におちて、そして捨てられてそのまんま東京に出てきたんです。二十二のときでした。何か芸を身に付けようと思って、飛び込みで千代菊姉さんのところに来たんです。もう五年もたっちゃいました」
華美は春彦が聞いてもいないことを、あたかも千代菊に命じられて暗唱でもしてきたかのように一気に喋った。
たとえ嘘でも、美貌の華美から聞かされると、全てが本当の物語のように思えるのが不思議だった。
華美は物憂げに天井のきらびやかな光を見つめていた。小さな熱帯魚が舞うようにその光の照明はキラキラとまわっていた。
「ねえ、先生。先生は次に市長か国会に出られるんですって?」
華美は言葉と同時に、かぼそい指を春彦の指に絡ませてきた。
女の魔性のようなものを春彦は感じて「よせよ、急に」と言葉だけは発した。指はそのままだった。ウイスキーの水割りを何杯あけただろうか。かなり酔いがまわってきた。
―― 俺には将来があるんだ。果たすべき夢があるんだ・・・。
女の誘惑に負けた男達の顔が浮かんでは消えた。
華美も相当酔っていた。
「私、歌ってきます」
華美の歌はそこはかとない哀愁をおびていた。華美の過去を遠くの虚空に投げ捨てるような・・・。
〝やめて、下手な嘘。抱いて、今はただ。雨にぬれたノラ。帰りついたあんた・・・〟
門倉有希の「ノラ」だった。歌い終えて華美は、春彦の膝に崩れ落ちた。そして号泣した。女には悲しい過去があった。その女の過去が今、妖しい陽炎のようになって、春彦の未来に〝ある仕掛け〟をしようとしていたとは、その時の春彦は夢にも思わなかった。
数日が過ぎた。時間の速度の中で一連のことは忘れかけた過去となっていた。
当たり前のように、いつもの昼の時刻がやって来た。
その時、一台の黒塗りの車が春彦の自宅の門前に停まった。市長の公用車だった。しかし、その車から降り立ったのは女性だった。千代菊が紫色の風呂敷包みを持って春彦の玄関先に立った。
「すいません。信濃先生のお宅ですか」
普段の彼女とは全く違う女としてやってきた。
「何です?今日は?」
春彦も改まった口調で答えた。
「あの、これ、私からのほんのおしるしです」
千代菊は慎重な面持ちで風呂敷包みをそのまま置いた。
不思議に思った春彦は「これは?」と尋ねた。
「何でもないの。ほら、今度の議会では宜しくお願いします。市長は先生を頼りにしてるんですから」
まるでよそ行きの口調だった。
千代菊は脱兎のごとく公用車に再び乗り込んだ。そして逃げるように砂煙をあげながら去った。春彦は風呂敷を開いた。
H市の名物の羊羹と、白い封筒があった。金だった。
「畜生!」
春彦は吐き捨てるように言った。
「あの軍師の山崎がしくんだな。それに千代菊がのったんだ!冗談じゃない!こんなことでやられてたまるか!」
その夜、春彦はその風呂敷包みを千代菊の置屋に返しに行った。
「全くー、春さんたら、固いんだから。大物になってよ」
意味ありげな顔で千代菊は言った。
翌日、千代菊は平然として市長室に入った。
そして、いかにも、実しやかに伝えた。
「あの包みは春さんにちゃんと渡しておいたからね」
市長の西川は女の鮮やかな虚言を鵜呑みにして大きくうなずいた。
急施を要する案件として道路建設のための臨時議会が開かれた。
助役が議会運営委員会に説明に来た。
保守系の議員は口々に「わかった、わかった」と言った。
そして春彦に採決を迫った。
通常、議会運営委員会は、採決をしない慣習があった。
そこで、委員長の春彦は重い口を開いた。
「この際、採決は致しません。しかし、本条例は疑義がある議案と私は思っています。私の調査によれば、この案件は一業者の便宜を図るために多額の税金を使うもので、私は委員長として、本会議に上程することは出来ないと信じます。もう一度、執行部は本案件を持ち帰り、納得のいくものとして提出して下さい」
春彦は確信を持って論じると、他の者は何も言えなかった。
議会は異例の延期となった。
市長の西川も参謀の山崎も首をひねっていた。
「薬は効かなかったのかな。おかしいですぜ、市長」
山崎はメガネ越しに市長を見つめた。
「あの女目狐め!」
山崎には天才的な臭覚があって、千代菊を疑った。
しかし、二枚舌と二枚腰の山崎はそのくらいでたじろがなかった。
「今度は小指だ」と独りつぶやいた。
(つづく)
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