トップページ ≫ 文芸広場 ≫ 県政の深海魚(23)「財界人達」
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春彦は東京麹町の紀尾井坂を急いでいる。
竹野博の待つ三経グループのビルに向かっていた。
急ぎ足で誰かが追ってきた。
最上礼子だ。
「何故、あなたがここに?」
怪訝さを持って春彦は訪ねた。
「あの失礼な言い方かもしれないけど・・・信濃先生達、これからが正念場だと思っているの。もの凄く大変で厳しい途を選んだと思って・・・心配で仕方なくて私なりに千曲先生達のその後の動きを調べみたの。あらゆる策を練って徹底的に信濃先生達を潰してしまおうと思っているわ・・・」
春彦は無言でいる。
「それと・・・信濃先生の仲間だってあんまり信じない方がいいわ。もう既に千曲に驚かされて、ぐらついている人達だっているんですからね」
最上礼子は必死だ。息を切らして春彦に訴えてると言った方が適切かもしれない。
「そう、そう、まだ言いたいことがあるの。政治家の友情とか、誓いなんて絶対に信じないほうがいいと思うわ、絶対に・・・」
―― そういえば明治の元勲、大久保利通と西郷隆盛の幼い時からの友情も破綻して西南戦争が勃発。西郷は大久保に破れ城山で自決。一方の大久保はその翌年、この紀尾井坂で暗殺されている。その大久保の屍からは、二通の手紙が発見された。西郷からの手紙だった。大久保は死ぬまで西郷の手紙を大事に身から離さなかった・・・。
春彦は歴史を感じていた。
蝉が狂ったように鳴き続けている。
―― 何故、竹野オーナーの城がこの歴史的な紀尾井坂にあってこの僕を待っているのだろう・・・。
終始春彦は無言を保った。
礼子もすっかり寡黙となって紀尾井坂を登る女となっている。
「いやあ!よく出向いて下さいました。感激ですよ!」
竹野は既に功なり名を遂げてかつてのようにギラついた風貌は影を潜め、人の良い仙人の容面を持って春彦を出迎えた。
「我々、経済人の心ある者は今の保守党に大きな危機感を持ってましてね。今度の信濃さん達の快挙に拍手を送ってやまないですよ」
春彦は満面に微笑みを浮かべている。
そして言葉をじっと選んでいる。
「とにかく最後まで頑張り続けたいと念じながら生きている毎日です」
竹野はこの青年政治家といっていい春彦に初々しい眩しさを感じながら、もう何十年も昔になってしまった盛年の時代の自分に春彦の姿を重ねていた。
竹野には青春の余熱が充分にあった。
余熱が火柱を作ろうとしていた。
「信濃さん、私こそ最後の最後まで応援しましょう。同憂の人脈、そして資金もです」
茶房「紀尾井」で礼子は春彦を待ちわびていた。
もう二時間も過ぎている。
礼子はこの長い時間を〝吉〟と信じている。
「やあ、悪かったね、こんなに待たせてしまって、ごめん」
礼子はこの一年、こんなにも晴々した春彦の姿を初めて見たような気がした。
「いいえ。きっと良いことがあったみたいね」
「うん、まあね。ところで久しぶりにご馳走するよ、どう?」
「嬉しい!是非お供させて」
「そう、僕も嬉しいな。そうだね、もうかなり涼しくなったからお濠端でも歩いてみない?桜田門あたりを右に曲がって行くと僕等がよく通っている寿司屋があるんだ」
「あら、私お寿司大好き!嬉しいわ」
―― こうやって二人きりでいられるのも、当分の間この今日というこの日しかないな・・・。
都会の晩暮の中で春彦は再び寡黙の男となった。
礼子はいつになく饒舌になっていた。
好物の日本酒が礼子の五体を気持ち良く循環して発言もいつになく大胆だ。
「女の勘で申し訳ないけど二十五名のうち最後まで残って戦えるのは、そうね・・・四、五名っていうところかな」
「ふうん・・・何故?その根拠は?」
内心、春彦もおぼろげながらそんな気はしていたが、ずばり礼子に切りこまれてかすかな不安を覚えた。
「だってね、私。取材を兼ねて千曲のK市にも随分足を運んできたわ。千曲って半端じゃないわ。凄い!何て例えたらいいかしら・・・。まあ普段はじっと海底深く潜んでいて・・・そう、ものすごい水圧に耐えて、自分の内臓と骨格を鍛え抜いている深海魚のボス・・・キングかな。地元のK市にいたってこれはという人には握手を求めてね、その手の中に、一万円か二万円、平気で握らしちゃうんだから・・・」
礼子は尚も続ける。
カウンターの向こうから三人の板前が春彦と礼子に時々目を配りながら音もなく包丁を滑らせている。
(この二人何の関係だろう?) 板前は無言で呟いているようにみえた。
「千曲って目的の為ならなんでもありの人よね。彼はね、春彦さんさえいなきゃいいのよ。だから、あらゆる手段で立ち向かってくると思うわ。だって一応保守党を束ねているんだもの。一本釣りを始めてくるわ。例えば、次の選挙で対抗馬を立てる、公認を下ろさない、資金と票をくれる・・・そんな方法で徹底的に潰しにくると思うわ。そうそう、言うことをきかない者には除名、離党勧告、彼は鬼以上になって若い先生方を脅しに来るくらい、春彦さんだったらとっくに承知でしょ?」
春彦は礼子の鋭い指摘に一言も返せない。
春彦の脳裏には、数時間前礼子と歩いてきた〝桜田門〟が焼きついて離れないでいる。
春彦は、幕末、大雪の降る桜田門外で浪士達によって暗殺された大老、井伊直弼を思い出していた。自分の考えに背く者は次から次へと処刑していった井伊直弼。
世に言う安政の大獄の主人公井伊直弼を後の小説家、舟橋聖一は〝花の生涯〟というタイトルで描いている。
鎖国から開国へ、政治家直弼は己が信念のもとに突っ走った。
反対者はことごとく刑場の露と消えていった。
―― 今の千曲はまさしく直弼の亜流だな・・・。
「あのね、礼子さん・・・」
口を開いた後、春彦は自分の言葉を疑った。
―― 礼子さん?・・・俺は酔っているな・・・最上さんというべきだったのではないか・・・。
「どうしたの?急に。おかしいわ、今日の春彦さん」
―― 直弼には参謀兼秘書役の長野主膳がいた。そして影のように直弼に寄り添い直弼を支えた孝女いう女がいた。だが、何で今、そんなことを俺は考えているのだろう・・・。
春彦の思考は〝桜田門の変〟でそのまま止まっていた。
「板さん、深海魚って寿司ネタに使えるの?」
春彦は突然尋ねた。
「いや、全くネタになんかなりませんよ。あいつらは逆にネタになる魚を喰いちぎっちゃう、どうにもならない嫌な奴等ですよ」
「春彦さんって、絶対深海魚になれないわよね。でもそこが春彦さんの魅力なのよ。だから皆が付いてくるのよ、きっと」
礼子は春彦の実態を完全に見抜いてしまっている。
「じゃ、僕は魚で言ったら何なの?」
「飛び魚!」
礼子は待ってましたとばかり答えた。
「成る程、飛び魚か・・・」
「板さん、飛び魚はネタとしてはどうなの?」
春彦は飛び魚を何故か気に入っている。
「そりゃ、上等なネタですよ。格好も味も最高ですよ」
尾鰭で水面を強く打って飛び出していく飛び魚。
鮮やかな型を保ちながら飛行していく勇姿。
―― しかしこの魚は政治家向きではないな・・・。
春彦は妙に納得して苦笑している。
春彦は日本経済連盟の事務局長と対面していた。
局長は財界の窓口役。東西観光のオーナー、利根川次郎だ。才気煥発な人で政界の人脈が豊富な人として知られている。やはり現状の保守党に強い危機感を抱き続けている。
「あなたの今回の行動には共感を持ってますよ。私なりに私の人脈を紹介しましょう。竹野さんの信頼している信濃さんでもありますしね」
利根川は早速、ライト商会の菊池修一や三矢銀行顧問の中山一郎等に連絡を入れた。
「みんな了解ですよ。我々経済人は、死ぬか生きるかの戦いをしてますから、決断は早いですよ」
利根川は少し太めの身体を揺すりながら春彦を励ました。
矢久商事の中尾会長は、日本経済連盟には所属しなかったが、中堅の優良企業のオーナーとして君臨していた。
第二次世界大戦ではビルマ戦線の作戦部長として活躍、日本の軍隊は亡ぶべくして亡んだということを自説としている。
中尾は若い春彦の透き通るような使命感に即座に惚れ込んだ。
「どんなことでも、どうぞご遠慮なく言って下さい。国家をいきなりは変えられませんが、先生方のその情熱と使命が必ずや日本、そうですね・・・新しい日本の建設の礎となるでしょう」
そう言いながら中尾は往事の苦渋を反芻していた。
春彦は現状の政治の腐敗をあらためて知らされた思いだった。
しかも、S県の事情を財界がこれだけ深く把握しているとは思いもよらなかった。
―― よし、後は内部の団結、そして他県の同憂の士とも大いに連携していくことだ・・・。
春彦は飛ぶようにS県の同志の元に帰った。
(つづく)
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