トップページ ≫ 文芸広場 ≫ 県政の深海魚(25)「魔性の深海魚」
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千曲は春彦を徹底的に叩きのめす事に執念を燃やした。
名実共に県政の覇者となる野望。その前に立ちはだかり、最後まで屈服しない春彦の存在は目障り以外の何ものでもない。邪魔立てするものは断じて容赦はしない。
千曲は妖魔となった。妖魔の舌端からは青味を帯びた緋色の炎が蛇のように吐き出された。
次の県議選。千曲は当然の事として春彦のみを公認から外した。外したのみならず、刺客まで送った。
保守王国H市で春彦は衣から鎧まで剥ぎ取られた。
刺客は対立候補のみではなかった。
血の滴るようなペンを持って相手を抹殺することを最上の愉悦としている綾瀬京太郎をH市に送り込んだ。綾瀬の悪名はその世界では知れ渡っていた。
綾瀬の資金は千曲を通して、国会議員の鶴見良介から手渡された。
またその裏で、刺客としての候補者、栗山一郎からも多額の上納金を千曲はむしり取っていた。
春彦は保守党改革運動の敗北に続いて、落選の憂き目に遭った。まさに血を吐くような千辛万苦を舐めた。
―― 昔だったら、四条河原での処刑だな・・・。
春彦はコンクリートに叩きつけられたような痛みに耐えながら虚空を仰いだ。
暫く途絶えていた礼子から手紙が届いた。
礼子らしい義憤と憤懣やる方ない想いが文面のいたるところに滲み出ていた。
同時に、礼子は礼子なりに何か意を決して筆をしたためた気配が筆跡の随所に読み取れた。
それでも、無理して感情を押し殺せるだけ抑えているのが伝わり、春彦はやるせない想いと切なさの海に沈んだような気持ちでいっぱいになった。
手紙の末尾は自作の句で結ばれていた。
〝暑に絶えてカンナの赤は潔し〟
春彦は反射的に返歌を書いた。
〝暑もなんぞ向日葵は強く陽にむかう〟
そして佐藤一斎の「言志四録」の一節を胸に浮かべている。
〝一灯を提げて暗夜を行く。暗夜を憂うるなかれ。只一灯を頼め〟
―― 人は惨憺たる体験をくぐることによってのみ生きることの奥義を極めるんだ。人生の中で起きる様々なことは皆成功のための準備体操だ・・・。
春彦は独り苦渋の中に身を置いた。
烈々たる歳月を思い浮かべながら、その日々の一コマ一コマは皆重要な意味と暗示を含んでいるのだと自らを慰めた。というより自らを激しく鼓舞した。
―― 悲観は感情だ。楽観は意志だ。強固な心の鎧だ。
窓の外は既に秋風が立っていた。
竹野博から長い手紙が届いたのは、秋の薄ら寒い頁を閉じて、冬も過ぎようとしている午後だった。
「激しい戦いをしてきましたね。私は大兄の雄略胆才に深い敬意を表します。そして今日、日本人が失いつつある〝志〟ということを大兄は見事に示してくれました。立志こそ、政治を業とする者にとっての大きな条件だと信じております。戦いは勝者と敗者しか残しません。しかし、それは表面だけの現象です。ややもすると勝者は驕り高ぶり、既に失敗の階段を下り始めていることに気がつかぬものです。状況の英雄はあっても、永遠の英雄は存在しないのです。権は十年とはよく言ったものです。一方敗者は志さえ堅持すれば勝利の道しかないのです。飛び交う中傷、計りしれない陰謀と策略の中で最後まで生き貫くには、それを超える強靭なる意志と志、そして泳ぎ抜くしたたかなバランス感覚。さらにもっと必要なのは支えてくれる他者からの深い愛情以外にないのです。勇気は強烈なエネルギーです。大兄は巨大なエネルギーの持ち主として信じて疑いません。政治家がしばしば時代によって断絶されるのは宿命のようなものです。しかし、必ず時を経て、歴史がそれを証明してくれるのです。そういう歴史に導かれ、触れることができるからこそ、政治家は〝それでもなお〟という奮起の快楽を味わえるのです。感奮こそ政治家の特権といっても言い過ぎではないでしょう。本当にご苦労様でした。この数年の疲労感は簡単には拭い去ることはできないと思っています。ここは暫くお休み下さい。正義感にも休息が必要なのです。最後に生意気な事を言わせて頂きます。大兄より人生を長く生きてきた老人の戯言として、心の何処かに留めておいて頂けるなら幸甚です。信濃春彦先生。先生は肉体的にも精神的にも実にタフなお方です。そして我々にとって何よりも魅力的な洋々たる未来を持った人物と信じております。だからこそお許し下さい。イタリアの言葉にこんな言葉がございます。〝魅力的な男は失脚する。なぜなら何かをやるから失脚する〟 深い警句だと思いませんか。そしてさらに 〝本当の魅力的な男とは、不名誉なことをしながらも高潔さを維持できる男。かっこ悪く生きる勇気を持つ男。汚いことをやるには決して自分のためではない悠々たる大河のような男を真の男という〟 どうか大兄が底力を発揮する日を願って止みません。例え形は変わろうとしても、そういう日が必ず来ることを信じて・・・」
春彦は込み上げてくるものをどうすることもできなかった。感涙で、顔面に幾筋もの小川が流れを作って留まることをしなかった。
―― 俺は凄い人達に支えられている・・・今日まで流してきた汗の量と血涙を決して忘れてはならない・・・。
春彦は熱り立つ塑像となった。
時は激流のように流れた。
新聞やテレビの報じる一つ一つの事件は、激流がはじき出す飛沫のように、あっという間に人々の記憶から消え去っていった。
そんなある日、久しぶりに礼子から手紙が届いた。礼子の容姿を映し出すかのような端麗な字が春彦の眼に飛び込んできた。
「余りのご無沙汰をお詫び致します。私はこの一年半、恥ずかしい表現かもしれませんが、春彦さんの仇を必ず取ろうと鬼のような女になっていました。どんなにもがいても、春彦さんの身代わりにはなれないもどかしさが、私を復讐する阿修羅の化身にさせました。絶対千曲の行状を暴いてやろうと寝食を忘れて生きて参りました。千曲はどのような背景があってあの潤沢な資金を作り出し、赤子の手を捻るように県議達を操り、県職員達を手玉に取り、あたかも県政の帝王・・・しかも闇の帝王となって君臨し続けるのだろうか。K市詣に要する運転手代、車代、土産代は県幹部を苦しめ、人事もこの帝王が裏で全てを牛耳っている事の本当の秘密の源泉は何処にあるのだろうか?ということを突き止め暴くまではどんなことがあっても記者という職業を絶対に放り出さないということが私の使命と思い今日に至りました。お蔭様でそのための私のノートはもう五冊になりました。結論から述べさせて頂きます。千曲は近々に逮捕されるでしょう。議長選に絡む贈収賄です。もう数年前から多額の商品券の噂、委員長ポストにまでかなりの金が流れている事を私は突き止め、当局と連絡をこまめに取り合い、やっとここに来て当局は確かな証拠を突き止め自信満々です。複数の議長候補から多額の金が千曲に流れたのです。また、その候補者達は千曲以外の大物議員にも金を渡し、既に当局は事情聴取を終えています。可哀想にそれぞれの奥様達も警察に呼ばれ事情を聴かれたようです。私にとって個人的にもっとも大きなことは春彦さんの県議選です。公認を得ようとした新人候補の千曲への上納金の多額さは目を見張るようです。最後には名目上の県連の会長も恐ろしくなって目をつぶっていたそうです。またブラックジャーナリスト綾瀬京太郎は巧みに春彦さんの全く関与してないない話をシナリオ化しデッチあげ、各料理屋を出発点として酔客達に大量に配ったのです。面白がる酔客の飲み代はそっと綾瀬が手渡し〝是非この資料を仲間に配ってくれ〟と頼み込み、その量は計り知れないものになりました。クリーンと見られている人物が実はブラックだったと信じ込ませるのが、最も効果的であることを千曲も綾瀬も知りすぎるぐらい知っているのです。春彦さんの身近な支援者まで信じ込ませてしまう程巧妙なプロの手口だったのです。千曲の次の野望は自らが県知事になることでした。千曲は保守党中央を牛耳る原下派とも近く、常に連絡を取り合い、裏ではお墨付きを貰っていたのです。しかし、そこに思わぬ強敵が現れました。国会議員の下田義一氏です。保守党内部はおよそ六・四で千曲が有利とされていましたが、人望、資金等で下田氏に水をあけられ、諦めたようです。その後はキングメーカーになることに決め、下田氏に想像を絶するお金を要求したのです。怒った下田氏は千曲とは縁を切り敢然として知事選に挑み圧勝したのです。千曲と下田知事の仲はより最悪となりました。そんな中での議長選汚職です。春彦さん、この二、三日はヤマ場です。天は見ているのです。この一件によって、千曲支配は終焉を迎え、浄化した県政に変わると私は信じています。あとは春彦さんが何をなさるかだけです。私も私なりの仕事はこれで一区切りがつきました。春彦さんの仇が取れたような気がして嬉しくてたまりません。是非、またお時間を作って下さい。楽しみにいたしております」
その後、千曲に関する一件は礼子の伝えてきた通りの事実となった。春彦は事実の凄さより礼子の執念の凄まじさに感嘆した。
自らの仕事に決然たる魂を持って挑戦していく人間の尊厳のようなものに触れて、春彦はこれほどの感動を覚えたことはなかった。清々とした心の気流が春彦を包み込んで放さなかった。
次に千曲の姿を想起した。うなだれて独房に座す、かつての覇者。
―― 風邪などひくまいか・・・馬鹿な・・・。
春彦は愚かしい自問を恥じた。
(つづく)
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