トップページ ≫ コラム ≫ 埼玉の余話 ≫ 統一選 埼玉の余話 2011.04.13
コラム …埼玉の余話
・戦い済んで日が暮れて、敗者は呆然として過去を悔やむ。散っていく桜に自分をなぞらえて「ああ、俺も散ったのか」と。現役から落ちて再度挑戦し、また敗れたN氏は「油断があった」と嘆いている。しかし、油断は前回も同じだった。どうやら油断というのはその人の性格によるものが多く、かなりの病なのかもしれない。
・これまた、市議から県議に挑戦、敗れて再度挑戦し憂き目をみてしまったO氏は「応援した前国会議員が真剣にやらなかったから俺は負けたんだ。市会議員の応援も結局役に立たなかった」と。みんな人のせいにしている。敗因を他のせいにする人は何をやっても大成はしない。全ての原因は詰まるところ、自己にあるのが人生だ。天災は別にして。
・首長や議長たちから多大な応援を受けながら大敗を喫したT氏。一族がT氏を大事にして「Tは本当素晴らしい候補者だった。あんな首長達さえ応援しなければ本当は勝てたのに」といっているという。親も子も一族も人生の厳しさを知らな過ぎる。“おかげさまです”と人様に頭を下げる心のあり方で人は成功への階段を跳ぶことが大いに可能なはずだ。
・県政史上10期目当選2人というのははじめてだ。そのうちS氏は市議も経験しているから人生の大半を地方政治で過ごしたことになる。多選の是非は別として血と汗で戦い抜いてきたエネルギーとパワーには頭が下がる。そしてしっかりと大地に根を張ってきたからこそ偉業を遂げたのだ。自民党の底力も見せつけられた思いだ。
・それにしても民主党はどうしたのだ。そもそも世の中を甘く見すぎているような気がしてならない。人と人の絆に対しての真剣さが見当たらないのだ。パフォーマンス先行、不実。正直いって、みんなの党にもいえるが人間の思いに対する洞察と哲学がなさすぎる。自民党が権力にあぐらをかいてきたからこそその反感を利用して自らの地位を作っただけだ。地位が出来てしまったというほうが適切かもしれない。ある候補者は選挙公報にメインキャッチで“不幸は誰か”と記した。あなたじゃないの?とあるアラフォー女性が笑っていた。
・石原さんの都知事4選は当然の結果だろう。人間にはどうにもならない「格」があって他候補は格がなさすぎた。横綱と十両ぐらいだろう。そしてまた有権者は頼れる人、実行する人、勇断の人を選んだ。当たり前といえば当たり前だがこういう危機の時代は特にそうだ。勇断なき低格の人はリーダーにはなれない。そしてまた身の程知らずということぐらい恐いものはないのだ。たまたま都知事選が象徴的だっただけで埼玉県の統一選すべてにいえることだ。
・“西のほうでは狂い咲きのような当選者もいたのには驚いた”と東のほうの有権者が言っていた。世の中には当然起こりうる現象だが県民の代表としては狂い咲きでは困る。狂はあくまで狂だ。一回散って再び咲き、色彩豊かな花となれば本物だが、そうもいきそうのない空気とオーラをこの人は発していて気の毒だ。しかし、どこかで急に良き方へ変貌する人も稀にいることはいる。是非、突然の変異を祈りたい。とも東の人は言っていた。
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