トップページ ≫ コラム ≫ 埼玉の余話 ≫ 埼玉の余話2013.7.13
コラム …埼玉の余話
一人の名物男が突然この世を後にした。労働大臣までつとめあげ、新自由クラブブームをまきおこしたかの山口敏夫氏の秘書・砂生健一さんだ。山口敏夫氏とは明治大学の同窓の誼もあって秘書になった。砂生さんの方が二年ぐらい先輩だった。はるかに四十数年前のことだ。彼の青春、彼の人生は山口敏夫氏と共にあったといってもいいほど、深かった。身体が大きくて山口さんは小さな体躯だっただけにいつも山口さんは大きな砂生氏を見上げながら叱っていた。上司とか部下を超えて師弟ともいえない深い情の中で二人は政界を泳いだ。汚れ役はいつも砂生氏が引き受けた。しかし砂生氏の口からは一度も愚痴を聞いたことはない。ボスとの秘密は墓場までというのが砂生氏の信条であり、矜恃でもあった。いまどきの薄っぺらな秘書達が゛ここだけのはなし″と囁く時その囁きは四キロ四方に飛んでいるものだが、砂生氏はプロに徹した。「秘書」という本来は最も重い二文字に、こだわり深い自覚をもっていた。小選挙区制に制度が改たまると代議士の地位はかなり軽くなった。危うくなったのだ。何しろ小選挙区一人だから、ちょっとした風の吹きまわしで親分がこける。親分こけたら子分の秘書もそれこそ宿なし芳一になる。したがっていつも次の就職口を捜しだすことにきゅうきゅうとなる。秘密を守るどころではないのだ。自民が敗れれば平気で民主。民主が敗れればどこでもいい、飯が喰えればとなる。政治も何もあったものではない。人は喰えなければ鬼にもなるのだ。それはそうと天下の山口敏夫氏もやがて失落の憂き目をみる。秘書達は一勢に散った。当然ながら砂生氏にもお呼びがかかったが、「士は二君に仕えず」と言ってヤセ我慢の人生を選んだ。茨の道を。持ち前の人柄で歩み続けた。人気があったのだ。情けに厚く義に厚かった。一ヶ月程まえ、氏の声を電話で聴いた。かなりつらそうだった。嫌な予感が走った。砂生さんは数日後、不帰の人となった。一人息子の敏―さんは埼玉新聞で健筆をふるっている。すぐれた息子さんだ。砂生さんの顔が敏一さんで破顔となってとろけた。もうあの人なつっこい百万ドルの笑顔に再び会うことはできないのだ。
星ひとつふえているらし通夜の天 修太 ・・・・ 合掌
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