トップページ ≫ 教育クリエイター 秋田洋和論集 ≫ 日中共同歴史研究の意味
教育クリエイター 秋田洋和論集
予想通り日中共同歴史研究は大した収穫がないまま終わった。近代史は政治そのものである。古代史と違って近代史は、時の政権が自らの正統性を補強するストーリーとしてある。専制独裁国家にあっては取り分けそうであり、そうした国では歴史研究の自由はなく国定の歴史しかない。そんな国と共同研究しても大した成果がないことは初めからわかったことだ。
報道によれば特に以下の三点で日中間の対立が大きかったようだ。
1. 南京大虐殺の数 日中それぞれの主張は数万人と30万人。
2. 満州事変の見方
3. 支那事変勃発の経緯
4. 中華人民共和国成立以後の歴史を対象とすることを中国が嫌った。
以下順次論評することにする。
1. 虐殺数の詳細な詮索はどなたか適当な人に任せるとして、ここでは虐殺が生じた背景を二点だけ指摘しておこう。
一つは南京城司令官の唐生智が降伏手続きをせずに逃走したため、降伏と停戦というケジメがつかず、どこまでが戦闘行為でどこからが捕虜虐殺なのかあいまいになってしまった。この点中国側の責任も大きい。
もう一つ日本側の事情もある。日本軍の進撃は急であったので補給が追いつかず自分たちの食料さえ十分でないので捕虜をとっても食わせる食料がない。従って捕虜は取らないという方針があった。
2.満州事変。今では相当細部まで明かとなっている。奉天(現瀋陽)軍閥の張作霖爆殺及びそのリプレーとしての柳条湖の満鉄爆破が関東軍の謀略であることに一点の疑う余地もない。この限りでは日中間の意見の隔たりはない(張作霖爆殺はソ連の仕業だったとする珍説を信じている人はもう一度近代史をおさらいする必要がある)。
問題はその背景をどうみるかだ。日本側は奉天政府が陰に陽に権益を侵害するのに手を焼いていたし、中国側からすれば日露戦争以後日本はひたすら満州の植民地化を図ってきたということになる。
3.支那事変勃発の経緯
日本側の主張:偶発的に突発したもので少なくとも日本側に謀略の意図はなかった。
中国側の主張:満州事変以来日本は一貫して華北の満洲化を進めてきた。盧溝橋事変はその延長上にある。
私見:盧溝橋事変は日本側の謀略ではない。中国側特に共産党の謀略である疑いが濃厚だが現時点で決定的な証拠はない。国民党に追い詰められ気息奄々の中国共産党は日中間で事あれかしと望んでいたからである。ただ仮に盧溝橋事変が中国共産党の陰謀だとしてもそれによって日本が免責されるわけではない。政治に謀略はつきものであり謀略に引っかかったほうが愚かであって、愚か者に正義があるわけではない。
しばしば「盧溝橋の一発の銃声がその後8年間にわたる日中全面戦争のきっかけとなった」と言われるが、この言い方はあまり正確ではない。日中全面戦争に至る経過は複雑で、盧溝橋以外に廊坊事件、通州事件も大きな役割を果たしたし、取り分け第二次上海事変が決定的であった。共産党陰謀説を唱える人はこうした全体の流れで共産党の役割を検証する必要がある。最近では国民党の上海軍区司令官の張治中は共産党員だったので、彼が延安の指示によって日中を全面戦争に引きずりこむためこの戦争を引き起こしたと主張する。実際張治中は共産中国成立後政府の高い地位に就いている。だが張治中の他にも蒋介石の対日弱腰政策に不満をもつ軍幹部は大勢いたし、共産党員又は共産党シンパも少なくなかった。張治中が共産党員であったかどうか詮索することにさほど意味があるとは思えない。
4.共産中国成立以後毛沢が死去するまでの歴史は失政、権力闘争、陰謀、愚昧な女帝(江青)の暴政等汚辱に満ちているので今の中国政府が隠したがるのは理解できる。だがこの期間は公表されていないことが余りにも多い。この期間を対象に含めない日中共同歴史研究など意味がない。
私は満州事変の発端となった柳条湖の満鉄爆破地点に立つ「満州事変記念館」、南京の「大虐殺記念館」いずれも参観したことがある。写真説明のデタラメぶりと間違いだらけの日本語表示が気になったことはともかく、入場者数が非常に少ないのにはやや救われた気がした。つまり普通の中国人にとって日中戦争ははるか遠い祖父母、曽祖父母の時代の話であってわざわざ入場料払ってまで行きたいところではないのである。
(ジャーナリスト 青木 亮)
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