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外交評論家 加瀬英明 論集
ロシア革命から七十四年にわたった実験が失敗した大きな原因の一つが、礼節を反革命的なものとして疎んだことだった。社会主義国家では人が粗野になり、偽善が横溢した。礼節は内面から発するから、外から強いる法よりも大切である。
いま日本が滅びつつある。人々が享楽を崇める生活に隷従するうちに少子・高齢化が進んで、国として衰退しつつある。
先人から受け継いできた既存の真理や、道徳的価値を認めないニヒリズムによって支配されている。
ニヒリズムという言葉は、帝政ロシア期の作家であったイワン・セルゲービッチ・ツルゲーネフ(一八一八年~八三年)が、小説『父と子』のなかで既成の秩序や価値を否定する、
革命的民主主義者の主人公を呼ぶために用いた。ツルゲーネフはネクラーソフの同時代人であり、同じように農奴制を告発した。無政府主義者のミハイル・アレクサンドロビッチ・バクーニン(一八一四年~七六年)と親しかったが、理想主義者が革命によって目標を実現できないと考えて、漸進的な改革と啓蒙教育を普及するべきだと信じた。
フェオドル・ミハイロビッチ・ドストエフスキー(一八二一年~八一年)の『悪霊』は、リベラルなインテリ青年が悪霊にとり憑かれて過激派になる物語で、一八七二年に発表されたが、四十年以上もあとにやってくるスターリン時代を生々しく描いている。ツルゲーネフもドストエフスキーも革命の行先を適確に予見していた。
社会主義は人類の呪いだった。陰惨なものになったのは、マルキシズムがロシアや中国の専制的な暗い民族性と結びついたために、厄介きわまりないものになったからだった。かたわらにパリ・コミューンによって代表される無政府主義的なアナルコ・サンジカリズムがあるが、もしフランスが一八七〇年の普仏戦争で勝ったとしたら、もっと民主的なものとなっていたはずだと思う。
ニヒリズムはどのような社会をも墜落させる。日本社会はニヒリズムによって冒されている。このところ日本の出生率で一人の女性が一生のあいだに産む子供の数は、一・三%でしかない。人口を現水準に保つためには、二・一%を必要とする。
日本の人口は二〇〇九年に一億二千八百万人に達すると、ピークを迎える。政府の高い推定で二〇五〇年に一億八百万人、低い推定によれば九千二百万人にまで減る。
これは先の大戦中に失われた人口より、はるかに多い。先の大戦では三百十万人が戦没したが、その六倍から十倍にのぼる人口が失われることとなる。
生産人口が激減してしまう。国の活力は働く人の数によって支えられる。
専制のもとにある中国がアジアの覇権を握ろうとして、軍拡を強行している。北朝鮮の核兵器も日本にとって深刻な脅威だ。これらの脅威に対抗するためには、急いで国防体制を確立し、防衛力を強化することができる。だが、日本はこのままでは少子化によって、今世紀なかばを前にして世界の主要国でなくなろう。
豊かさが増して容易に経済的に自立できるために、自愛が強まり自己中心になったために、少子化がもたらされた。個人が勝手気侭に生きるから、家族や共同体の絆が弱まった。権利を主張すること自体、悪いことではない。だが、社会は健全でなければ機能しない。
二〇〇八年は北京オリンピック大会が催された。私はエチオピアのアベベ・ビキナ選手がローマ大会のマラソン種目で裸足で走って、金メダルをとった時に感動した。四年後の東京大会でも裸足で走り抜き、再び金メダルを手にした。
ハイレ・セラシエ皇帝がアベベを陸軍曹長に進級し、外国製スポーツカーを褒美として贈った。アベベはこの自動車を運転して事故を起こし、余生を車椅子のうえで送った。豊かさが人に不幸を招く話だった。
北京大会は壮大なポチョムキンの村だった。独裁政権の威容を示すために“鳥の巣”国家スタジアムをはじめとする、フォラオのピラミッド状の建造物がつくられたが、事前に地方からの出稼ぎの人民が全員市外に追放された。
ポチョムキン(一七三九年~九一年)はロシアのエカテリーナ二世の寵臣で、ポチョムキンが総督として治めていた地方を、女帝が視察した時に好ましくない事実を隠蔽するために、板張りの街並みをつくったことによって歴史に名を残した。今日の中国と変わらない。揚子江では大事な着衣がほつれないように一糸も纏わない、全裸の引き舟人夫が苦吟使されている。中国をテーマにした秀逸な写真集『中国ある国のポートレイト』がアメリカで出版されたが、裸の引き舟人夫の姿が載っている。
家族こそが東西を問わず社会の出発点である。今日の日本では祖先を祀ることがなく、一族の繋がりが失われた。家は一族であってきたのに、住宅を指すだけの言葉となった。
いま日本の四千七百万世帯の四分の一の千二百万世帯が、一人世帯となっている。家族国家であることを誇りにしたのに、家族の絆が束縛として忌まれるようになっている。
言語は人をつくるもっとも力のある鋳型だ。孝心、実意とか、心ばたらき、家風、家訓、花嫁修業、ご近所、箒目、罰と思いつくままにあげていっても、おびただしい言葉が死後となって、日本人をつくってきた鋳型が壊された。
社会主義は伝統文化を根だやしにすることによって、新しい人を創ろうと試みた。私たちは今という時しか大切にせず、過去を捨てることによって、新しい人となった。
いつの時代にも共同体は先人の過去の体験を受け継ぐことによって、束ねられてきた。
ところが、豊かな社会においては現在という刹那的な頼りない時間しかない。そんな社会がいつも漂っているように感じられるのは、今という時間だけしか大切にしないからだ。過去という厚みを欠いている。
何ごとについても速度が尊ばれる。情報の洪水だ。情報はそれが何の役に立つかということよりも、速度が大切だ。現在すら瞬間ごとに捨てられていく。
ハイテク社会では過去はコンピューターのメモリーのようなものだから、力を失っている。記憶と呼ばれていても、蓄積されているメモリーが取り出されて、移動するにすぎないから、現在とかわりがない。
過去は再体験することによってのみ、生かすことができる。
ついこのあいだまで日本では神棚に手を合わせたり、朝、太陽へ向かって拍手を打ったものだった。新年を迎えて門口に依代として松飾りを立てることも、たんなる飾りになった。
私たちは人類が生まれてから、初めて現在しかないおぞましい文化をつくりだした。落ち着きある生活を営むためには、受け継いだ文化を大切にしなければならない。伝統は博物館に何が並んでいるのかということに、現れるのではない。
人々がどれだけ過去を体験するかということによって守られる。
この四十年あまりに、徳目のありかたが大きく変わった。
かつて人々の行動を律した徳目が、贋物の徳目によっておき替えられている。平等、差別や格差がない社会、福祉の充実、環境といった、擬似的な徳目が信じられている。これらは人格を形成するものではないから、徳目になりえない。
徳目は自己を律して、向上させるものだ。似非の徳目は自己愛という、卑しい動機から発する。社会が見せ掛けの徳目によって支配されているが、社会を構成する一人ひとりが自己を改善しないかぎり、社会はよりよくならない。
かつて節約が徳目とされた。蓄財や吝嗇を意味しなかった。
倹約が強調されたのは、欲望を抑えるためだった。今日では大量消費を煽るために欲望を充足することが、称えられる。
忍耐心は和を保つための美徳だった。
もとより民主主義は道徳と無縁である。私たちが謳歌する民主主義は、国民の思想や信条にいっさい干渉しないのが原則である。
法律だけが国民を拘束している。だが、法律は行為の結果に対してだけ効力をもつもので、人の内面になんら干渉しない。法律が干渉するのは犯罪が行われた後であって、その前にはまったく力を発揮しない。何をもって、おぞましい犯罪を事前に防ぐことができるのか。民主主義のもとでは内的規範について社会が関われないことになっているが、結局は本人の内的規範によるしかない。
各人に自律的に内的規範を確立することを求めないかぎり、社会が崩壊する。法体系は内的規範をつくるものではない。自力作善を求めるほかない。貧しかった時代には人々が助け合って生きたから、共同体として結ばれていた。国は国民の拠り所だった。人々が夢と痛みを分かち合った。
人も社会も過去に深い根をしっかりと張ることによって、力をえる。それなのに、なぜか過去は捨てるべきものであって、新しいものが好まれる。
だが、新しいものは試されていない。未来には実体がない。
社会主義者は未来を売り物にしたのに、宗教者が死後の世界を売り物としたことを嘲った。
日本で人権とか差別のない社会とか、男女共同参画社会を主張する人々は、古い徳目が自己を律するものであるから敵視している。先人を愚か者扱いするのは思いあがりだ。社会主義者は傲慢さゆえに失敗した。徳目は長い時間をかけて磨きあげられた知恵だ。人の内的規範は伝統文化にしか求めることができない。
フリードリッヒ・エンゲルスが『家族・私有財産および国家の起源』のなかで、私有財産制度が結婚と家族制度によってもたらされるといって、廃止しなければならないと説いた。
レーニンは革命が成就すると、法律によって家族制度と養子制度を廃止した。
これも、大失敗だった。スターリンは性道徳があまりにも乱れて、少年犯罪が激増したために、一九四四年に家族制度を廃止した法律を撤廃して、養子制度を復活した。
ところが、今日の日本では誰もエンゲルスの難解な本を読むことがないのに、家族の解体が進んでいる。道徳が乱れ、少年犯罪が増している。
私は人一倍食い意地がはっているので、食文化に関心がある。食は重大事だ。人類が発祥してから食を分かち合うことによって、家族の絆が培われてきた。
家族は太古の昔から食卓を囲んで団欒することによって、成り立ってきた。そのような食文化こそ、家族を束ねてきた。
家庭を破壊した元凶といえば、女たちだ。そして朝に晩に儲けようと、小賢しく算盤を弾くスーパーやコンビニチェーンや、食品会社や外食産業経営者であり、託児所や養老私設充実させようとする自治体であり、女の家庭離れを煽り、夫婦別姓や男女共同参画社会を説く人々である。
かつて女たちは家族の食事をつくるために、多くの時間を費やした。ところが、調理の手間を省けば、自由な時間が増えて解放されると思っている。
食文化の基本の場は家庭である。このところ日本ではレストランが立派になるのと反比例して、家庭の食事が貧しくなった。
女たちが台所に入って調理しなくなったので、家族が会して食べることが少なくなった。たまに家族が集まって食べるとしても、加工食品を家電製品で温めるだけのことだ。二、三分間しかかからない。子どもたちまでが能率を流行神として崇めている。手や心は能率を阻害するから、省かねばならない。自分で自分を追い立てて急がせると、情緒が不安定になる。人には待つことが必要だ。
そのくせ、女たちは化粧したり落すことに一日一時間以上をかける。自己中心なのだ。美容院や化粧品メーカーのサロンや、エステティックサロンで長い時間をすごすことを厭わない。だが、心に化粧を施そうとしない。そうするうちに機械のように冷たい心をもつようになった。こんな女は魅力がないから、少子化が進んでいる。
女たちのかわりに、食品工場が流れ作業によって、コンビニやスーパーや、ファストフードのチェーンへ送り込む加工食品をつくっている。野菜や魚肉や果物をそのまま売るよりも、加工したほうが付加価値が高くて儲かるので、力を注いでいる。価値という言葉が悪用されている。
食物は自然の恵みであったのに、加工食品が子どもたちにまで肥満体や糖尿病をもたらしている。食は人をつくるが、商業論理がつくる食物を摂ると、その精神が乗り移る。
家族の絆はゆったりとした、無限と思われる時間を共有することによってもたらされるから、能率的でない。私は多神教を信じているから、あらゆるものに精神が宿っていると信じている。コンビニやスーパーで売られている加工食品には、魔神が巣くっている。
女たちが結婚を支え、台所を預り、親を世話するという使命を放擲した。それを助長する企業や広告代理店や、言論人や自治体を呪わなければならない。
(自由20年11月号より つづく)
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