トップページ ≫ 外交評論家 加瀬英明 論集 ≫ 「観光・飛脚・出版が盛んだった」 外交評論家 加瀬英明
外交評論家 加瀬英明 論集
徳川時代の日本は、レジャーをとっても、世界の最先端をいっていた。庶民が全国にわたってどこへ行こうと自由だったから、団体旅行が盛んに行われた。ヨーロッパでは19世紀末になって、トーマス・クック社によって団体旅行が始まったが、日本では「御師」という今でいう旅行業者が全国に散って、伊勢参りをはじめとする団体旅行を手配した。
御師はもともと神宮や、神社に属した祈祷師で、代理祈祷を行ったり、お札を配布したり、信徒の宿泊を世話したものが、参拝者を勧誘するかたわら、宿坊である宿屋や、土産物屋を経営するようになった。それぞれの神社や、仏寺に御師がいた。顧客である信徒を増やすために、今ふうに言えば市場の開拓に努めた。
2,30人の庶民が、団体を組んで旅をした。伊勢旅行だけではなく、四国の金毘羅参りや、四国遍路、秩父巡礼、善光寺参りなど、多くの団体旅行が行われた。
東海道の道筋の主な宿場町だけで、1000件以上の旅籠があった。1800年代初頭の文化年間に、いくつかの旅籠組合である「講」が結成され、旅籠がそれぞれ所属している講の看板を掲げた。あづま講や、浪花講がその代表的なものだったが、今日の日本観光旅館連盟会員の旅館のように、旅行者が安心して泊まれる目安となった。
街道にはこの他に、多くの安価な宿泊所である「木賃宿」があった。「木銭宿」ともいうが、客が自炊した。宿泊客が宿からそのつど、薪や水を買ったことから、そう呼ばれた。旅籠でも、木賃宿でも、見知らぬ客と一緒になる相部屋が普通だった。
また、江戸時代には出版が盛んで、学問書にかぎらず、さまざまな書籍が刊行された。『東海道中膝栗毛』は、十返舎一九(1765年~1831年)の作による滑稽本だが、享和2(1802)年から文政5(1822)年のあいだに刊行された。江戸神田八丁堀の住人の弥次郎兵衛と、その食客の喜多八が、大阪までいっしょに旅をする旅行記ともいうべき話だが、発表されると好評を博し、続編がつぎつぎと加えられていった。
弥次喜多の2人は、東海道中が完成すると、大阪から四国へ渡って金毘羅参詣を行い、本州に戻って宮島を観光したうえで、木曽街道を通って善光寺を詣で、草津をまわって江戸まで帰った。ここで作者が没したので、連作が終わった。
十返舎一九は重田貞一のペンネームであるが、町同心の次男として生まれた。この道中記のヒットは、全国の観光名所を舞台にした、松竹の寅さん映画『男はつらいよ』シリーズを彷彿とさせる。それだけ、当時の庶民が観光旅行や湯治に興味をもち、出かけていたことが分かる。
郵便も九州から北海道まで、どこにでも届いた。「宿駅」制度が整備され、「継飛脚」がリレーした。これほど郵便制度が整った国は、当時の世界になかった。
「飛脚」は夜に入ると、高張提燈をもって走った。『東海道中膝栗毛』にも、飛脚が書状籠をかついで、威勢よく「エイさっさ、エイさっさ」と掛け声を発しながら、弥次喜多の2人を追い越してゆく情景が、生き生きと描かれている。
「町飛脚」が日本最初の民間の郵便に担当した。東海道を6日で走ったから「定六」とも、定期便だったから「定飛脚」とも呼ばれた。「三度飛脚」は東海道を毎月3回、往復するとして知られた。当時の絵をみると、馬子にひかせた馬に乗っている。小荷物も扱った。大阪の商人たちが、寛文2(1663)年に、京都、大阪、江戸をつなぐ三都定飛脚組合をつくった。「3度笠」は3度飛脚がかぶっていた菅笠だったことから、そう呼ばれる。
江戸では日本橋のわきに町飛脚の標識をたてて、藁のむしろを置き、郵便を出したい者は書状に賃銀を結びつけて、叺に入れた。番人が誰もいなかったが、盗まれることはなかった。
現金を運ぶのは、「金飛脚」だった。金飛脚は護身用の脇差を、さしていた。江戸の市内専門の飛脚屋もいて、便り屋とか、使い屋などと呼ばれた。集配人が棒の先に鈴をつけた籠をかついでまわり、町民がこの音を聞いて手紙を預けたことから、“チリンチリンの状配り”としても、親しまれた。
(徳の国富論 1章 徳こそ日本の力より)
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