トップページ ≫ 外交評論家 加瀬英明 論集 ≫ 日本語では「こころ」がもっとも多く使われていた 外交評論家 加瀬英明
外交評論家 加瀬英明 論集
明治が終わるころまでは、日本語のなかで「こころ」がもっとも多く用いられた言葉だった。
「心尽くし」「心立て」「心配り」「心入る」「心有り」「心砕き」「心利き」「心嬉しい」「心意気」「心合わせ」「心がけ」「心延え」「心馳せ」「心根」「心残り」「心様」というように、心がつくおびただしい数の熟語がある。世界の諸語のなかで、日本語ほど心と組み合わされた語彙が多い言葉はない。これは、日本語の際立った特徴となっている。
日本民族はこころの民だった。人々は心を分かち合って生きてきた。
幕末の日本を訪れた西洋人は、日本人の親切さに感嘆した。「振舞水」という言葉があるが、暑い時に商店や、家の前の道わきに桶や、樽を置いて水を入れ、柄杓と茶碗を添えて、往来する人が自由に飲めるようにしてあった。水ぶるまいとも、接待水ともいったが、他者に対し、いかに心を繊細に働かせていたかがわかる。
他人に心を配るだけではなかった。
江戸中期の俳人である上島鬼貫(1661~1738)に、「行水の捨てどころなし虫の声」という句がある。やはり中期の女流俳人だった千代女(1703~75)の「朝顔につるべ取られてもらい水」という句にも、同じ感性がこもっている。日本人は自然とも和し、虫や草にまで心を通わせる、やさしい心を持っていた。
イギリスの初代駐日公使だったサー・ジョン・オールコック(1809~97)は、幕末の安政6(1856)年に着任した。オールコックは江戸の美しさに、息を呑んだ。
「この首都には、ヨーロッパのいかなる首都も自慢できないような、すぐれた点がある。それは、ここが乗馬をするのに、ひじょうに魅力的な土地であることだ。都心から出発するとしても、どの方向に向かってすすんでも、木のおいしげった丘があり、常緑の植物や、大きな木で縁どられた谷間や、木陰の小道がある。
しかも、市内でさえも、とくに官庁街の城壁沿いの道路や、田舎の方向に走っている道路や並木道には、ひろびろとした緑の斜面とか、寺の庭園とか、樹木のよくしげった公園とかがあって、目を楽しませる。このように、市内でも楽しむことができる都市は他にない」(『大君の都』)と、述べている。
江戸には樹木や、緑がいたるところに繁っていた。樹木は建造物よりも眼を和ませ、心を悦ばせてくれる。葉が雨をはじく音も、快かった。
西洋人が幕末に撮影した、高輪にあった薩摩藩の江戸屋敷の写真が残っているが、竹や樹木に囲まれた構えは清涼感にあふれている。
そういう環境の中で、江戸時代には、誰もがまっとうに生きようとした。「義理」とか「仁義」といった言葉は儒教から発して、はじめは武家が用いたものだったが、庶民は自分達の生活体験を通じて、生活を律する道理とした。
人々は自分を抑えて相手を尊び、助け合った。このような態度は、言葉づかいにも表われた。敬語は目上に対してだけでなく、対等な者どうしでも使われた。江戸っ子は荒いべらんめえ調で、威勢よく話したと信じられているが、日頃は丁寧な言葉を用いた。
言葉は人をつくる、もっとも強い力を持った鋳型である。こころが言葉となって、表われる。今日のタレントがテレビで、あるいは若者が携帯電話で思いついたことを、そのまま喋るのと違って、言葉は選ばれて使われた。そこにはまず自制が働く。無意識のうちに、相手への配慮も、自己の評価も行われているのである。
(徳の国富論 2章 日本民族は「こころ」の民より)
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