トップページ ≫ 外交評論家 加瀬英明 論集 ≫ 「生まれながらの自制心」外交評論家 加瀬英明
外交評論家 加瀬英明 論集
日本は自制する文化である。
安土桃山時代や、江戸時代に日本を訪れた西洋人は、鮮やかな極彩色を好む中国人や朝鮮人と違い、日本では抑えた中間色や、地味な色合いが用いられていることに気づいた。高官も、富裕な者も、地位や富を顕示するような身なりをしなかった。みせびらかすのは、野暮とされていた。
日本人は世界のなかで、もっとも寡黙な民族である。今日でもはっきりした自己主張を避け、曖昧な言いまわしをする。論理性がないわけではなく、和を重んじるからである。
エドワード・モース(1838~1925)はアメリカの動物学者で、明治10年(1877)に来日し、東京帝国大学で教えた。大森貝塚の発見と調査によって、知られている。
モースは著者『その日その日の日本』のなかで、つぎのように述べている。
「驚くことには、また残念ながら自分の国(註・米国のこと)では人道の名に於て、道徳的教訓の重荷になっている善徳や品性を、日本人は生まれながらに持っているようである。衣服の簡素、家庭の整理、周囲の清潔、自然及びすべての自然物に対する愛、あっさりして魅力に富む芸術、挙動の礼儀正しさ、他人の感情に就いての思いやり(略)これ等は恵まれた階級の人々ばかりでなく、最も貧しい人々も持っている特質である」
そして、さらに「こう感じるのが私一人でない証拠として、我国社交界の最上級に属する人の言葉をかりよう。我々は数カ月の間、田舎の宿屋に泊った。下女が我々のやった間違いを、丁寧に譲り合ったのを見て、この米国人は『これ等の人々の態度と典雅とは、我国最良の社交界の人々に比べて、よしんば優れていないにしても、決して劣りはしない』といった」と、記している。
日常生活が暗黙の合意によって、律しられていた。誰もが実直で、礼節を守り、義理堅く、律義だった。
ついこの間までは、このような律義さを、「明治気質」といった。明治は多分に、江戸時代の延長だった。
江戸期の男も女も、意志が強かった。自分の中にしっかりした規範をもっていたから、判断がぶれることがなかった。そこに毅然とした強さが生まれた。
今の日本社会では強いものが否定され、弱者が人間的だとみなされている。偉人を称えるよりも、人としての弱さを暴くほうが、喜ばれる。
一徹者や、頑固者などは喜ばれない。何事についても、寛容であることが望ましいと、考えられている。しかし、寛容は弱さや怯だにもつながる。克服することによって、人は向上する。
いつの時代でも強く、優れた者が人々を牽引することによって、社会が発展してきたことを忘れてはなるまい。
江戸の人々は共通の価値観のもとで生活していたから「世間体」が何よりも大事だった。世間体は、世間態とも書き、世間の人々に対する対面を意味し、見栄でもあった。
世間の人々との人間関係が、天と同じように重要だった。ユダヤ・キリスト・イスラム教のように絶対神を想定することで、同じ価値観のもとに人々を結束させる文化もある。しかし、日本の場合は、社会そのものが人を見守る天であり、人々を束ねる役割を果たしていた。
人々はそのために、人間関係の絆を何よりも大切にした。人間関係が社会道徳を支えていた。もし、社会規範に背くことがあったら「世間体が悪い」といって、一族ぐるみで恥じた。
全員、名誉心が強かった。いまでは名誉というと、肩書きや、賞状や、勲章のように、外から与えられるか、付着するものであるが、自分のなかから発する自戒だった。「世間を狭くする」とか「肩身が狭い」というと、社会の信頼を失うことを意味した。社会と関わるうえでの規範が、人々の生き態をつくった。
ところが、いまの日本では共同体意識が薄れたために、昭和に入っても使われていた、世間や世間体という言葉がなくなってしまった。美徳としての見栄も名誉心も、とうに失われたままでいる。人間関係はただの駆け引きと同視され、自制心は弱さの現われとして蔑まれるようになった。
私はビートルズのジョン・レノンと、親しかった。ジョンは私の従姉と結婚して、ニューヨークの日本語学校に通っていたが、日本語の「お陰様で」という表現が、世界の言葉のなかでもっとも美しいということを口癖にしていた。生かされていることを、天に、人に社会に感謝する謙虚な精神を、するどく感じ取っていたのだ。
庶民は当然のように助け合った。さまざまな「講」が、その具体的な現れだった。講とは講金を集めて融通し合う制度で「無尽」とか「金頼(たの)母子(もし)講」とも呼ばれた。庶民の知恵が生んだ、相互扶助の金融の仕組みであり「たのもしい」が語源といわれる。
十数人、数十人が集まって講をつくり、講衆、講員である仲間が講金を積み立て、抽選や、入札などの方法によって、全員が順番で給付を受けた。
「前垂(まえだれ)無尽(むじん)」は多くの婦女が行った小額の無尽で、何十文とか、何百文の日掛け、月掛けの銭無尽だった。町屋の女が締めた前掛に、掛け金を掛けるのが前垂無尽の由来である。目的によって住居から始まり、畳頼母子、布団頼母子とか、箪笥頼母子、萱無尽など、物品を購入する資金を調達するための、多様な講が存在していた。
寺社参詣のための積み立て講では、講金を使って旅に出る者を「代参者」とみなした。
いまでも旅に出かけると、親しい人々に土産を贈る習慣がある。観光地に土産物店が多いのが、日本に独特な光景となっているが、講中仲間に、代参した印の手土産を配った名残である。
(徳の国富論 2章 日本民族は「こころ」の民より)
バックナンバー
新着ニュース
- エルメスの跡地はグッチ(2024年11月20日)
- 第31回さいたま太鼓エキスパート2024(2024年11月03日)
- 秋刀魚苦いかしょっぱいか(2024年11月08日)
- 突然の閉店に驚きの声 スイートバジル(2024年11月19日)
- すぐに遂落した玉木さんの質(2024年11月14日)
特別企画PR