トップページ ≫ 外交評論家 加瀬英明 論集 ≫ 「寺子屋の師は3人に1人が女性」 外交評論家 加瀬英明
外交評論家 加瀬英明 論集
往来物のなかに、農民の子供たちのために、農業の初歩的知識を教える『百姓往来』があった。明和3(1766)年に刊行されたが、その後、農民の子のためにさまざまな往来物がつくられて、全国に普及した。
あのころの日本には文部科学省がなかったことが幸いして、教育が画一的ではなかった。寺子屋はすべて、私設の学校だった。
幕府も政策として、寺子屋の普及に力を入れた。8代目将軍の徳川吉宗(1684~1751)は、寺子屋における庶民教育を重視した。吉宗は儒者の室鳩巣に命じて、寺子屋で用いる初等教科書である手習本の『六諭衍義大意』を、享保7(1722)年に編纂させた。書道の手習いの手本と、倫理の教本を兼ねていたが、世界でもっとも古い国定教科書である。
『六諭衍義大意』は中国の古典をもとにしたものだが、父母を敬う「孝順父母」、長上を尊敬する「尊敬長上」、郷里を大事にする「和睦郷里」、子孫を教育する「教訓子孫」、人の生理―生きる道を示す「各安生理」、悪事を働いてはならない「母作非為」の6部から、構成されている。
吉宗のあとに、老中の松平定信(1758~1829)や、水野忠邦(1794~1851)などが、寺子屋を増設するのにあたって、大きな役割を果たした。
といっても、幕府が今日のように教育の細部にまで、干渉したわけではない。奉行所に教育を担当する役人が、1人もいなかったことからもわかろう。
寺子屋は初期の段階では、僧侶や、武士の浪人や、神官が生計のたすけとして経営した。江戸後期になると、寺子屋の手習師匠の3人に1人が、女性だった。寺子屋では今様の男女共同参画社会が、罷り通っていた。
寺子屋では手習師とも呼ばれた教師たちは熱心で、1人ひとりが個性的だった。しばしば「雷師匠」と呼ばれたが、師匠の情熱が子供たちに乗り移った。
授業中に私語を交わしたり、規律を乱す子供がいれば、容赦なく折檻を加えた。当時の記録によれば、そのような子には竹箆をあてたり、机を背負わせる体罰が与えられた。
当時の人々は、幼い子供が人よりはまだ獣のほうに近いことを、理解していた。箆は矢にする竹のことである。
今日の日本では、画一的な教育を受けて養成された教員が、型にはまった教科書を使って教えているために、子供たちからやる気や、想像力や、夢を奪っている。本当の教育は、人の外面ではなく、芯をつくる作業である。
教員のなかには、すっかりサラリーマン化したか、労働者として教壇に立っている者が多い。子供の充実感や達成感は、何といっても教師の熱意による。
子供は感受性が強い。いつの時代にあっても、理屈よりも、心によって動かされる。教員の肌のぬくもりが伝わらなければ、子供に訴えることができない。
今日では、雷師匠がいなくなった。雷親父もいない。残念なことに、雷がつくものといえば浅草の雷門と、雷おこしだけになってしまった。
そのために、日本では最近になって「カリスマ教師」とか「スーパー・ティーチャー」がもて囃されるようになっている。かつての教師像に対して、強い郷愁(ノスタルジア)が働いているのだ。
江戸時代における寺子屋は、父兄からも寺子たちからも、神聖な場とみなされていた。教育は商品や、サービスのように売り買いするものではなかった。今日の政府の統計では、教育は、なんとサービス産業のなかに入っている。
だが、子供の教育は、知識や技能を教えるサービス業ではあるまい。先の大戦に敗れるまでは、教育は人の心を扱うものだと、考えられていた。
寺子屋教育は、神聖な雰囲気のなかで行われた。師匠は親の代理人だった。そのためには、まず家庭において、恭しい環境がつくられていなければならなかった。このごろでは、家庭を聖なる場としてきた神棚や、仏壇のない家が多くなっている。
(徳の国富論 3章 寺小屋と七千種の教科書)
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