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外交評論家 加瀬英明 論集
江戸時代の日本人は、自らを尊んだ。
私はある時、福沢諭吉が創立した、日本でもっとも古い社交(会員制)クラブである「交詢社」に招かれて、福沢精神をテーマにして講演したことがあった。福沢は「独立自尊」という言葉を遺したことで、知られている。
私は「独立」と「自尊」の二つの言葉を、組み合わせているが、いったい独立と自尊とどちらが大切なのだろうかと、問いかけた。そして、人は自らを尊べば、おのずから独立するから、自尊が出発点になると、訴えた。一国の独立についても、同じことがいえる。
江戸時代の人々は庶民まで含めて、自らを尊んだ。だから誰もが頑固だった。今日の日本人は粘土細工のように、周囲に合わせるから、自分をつくることがないし、自立することができない。
江戸時代の日本人は、多様だった。そのために、多くの個性的な人材を生んだ。武士の子はそれぞれの藩が設けた「藩校」で、学んだ。藩校は藩の数の増減があったが、全国で280あまりあって、「藩こう」と呼ばれた。こうは学校を意味する。
入学は強制的なもので、藩によって異なったが、7歳か、8歳で入学した。藩校によっては、農家の床屋の子息も受け入れた。
藩校では文武の両芸が、教えられた。藩校でも人格の陶冶に、力を注いだ。人格を磨くことこそ、江戸時代の日本人が何よりも大事にした。
幕府も、藩も、教育を重視したから、幕臣や、藩士や、その子弟のための学校を、競って開設した。江戸末期には藩が直営する医学校や、郷学校、皇学校、洋学校、女学校など、さまざまな学校が現れた。
5代将軍綱吉によって元禄4(1691)年に、神田湯島に建立された尚平坂学問所は、有名である。「尚平こう」の通称によって知られた。
孔子廟、聖殿があったので、聖堂としても知られた。尚平こうは幕府の儒官であった林羅山が上野にひらいた林家塾だったものを、昌平坂上に移し、幕府が費用をもって、壮麗な建物を建造したものだった。
尚平こうには幕臣をはじめとして、全国から藩士が入門して、儒学を学んだ。多くの藩士たちが、諸藩の儒官となった。幕府は長崎、甲府、駿河、日光、佐渡などの幕府領である天領に、尚平こうの分校として、「郷校」を開設した。
幕府は庶民の聴講を、湯島の聖堂だけでなく、八重洲河岸の高倉屋敷でも許した。高倉屋敷でも、儒者が講義した。幕府は町人が私塾を開設するのを、奨励した。全国に、それもあらゆる分野にわたり、私塾が存在した。私塾では、武士や、庶民の有志者がいっしょに学んだ。
伊藤仁斎は江戸期初期の京都の儒学者であるが、商人の子として生まれた。伊藤の私塾である「古義堂」は、3000人以上の門人を擁していた。
石田梅岩も多くの門弟を、世に送った。江戸末期までに「石田心学」を講じる塾が全国にひろがり、34の藩にわたって180を教えた。
江戸時代を通じて、自己を磨く修己の努力が強調された。教育の目的は知識や、技を身につけるだけではなく、自分を磨くことだった。
(徳の国富論 3章 寺小屋と七千種の教科書)
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