トップページ ≫ 外交評論家 加瀬英明 論集 ≫ 「江戸は世界に類例のない自治社会」 外交評論家 加瀬英明
外交評論家 加瀬英明 論集
江戸の70万人以上の庶民の治安が、僅か300人あまりの同心をはじめとする、今日でいえば警察官によって保たれていたことは、すでにふれた。
ところが、江戸時代でいうと、人々が圧政のもとで生きていたと、誤って信じている者が少なくない。だが、70万人に対して、300人あまりの警官しかいなかったのだから、抑えつけられていたというのは、まったく当たらない。
江戸は世界に類例がない、高度な自治社会だったのである。
江戸の町制は、町人である「町年寄」「町名主」「大家」「五人組」による四重構造となっていた。
「町奉行」のもとに三人の町年寄がいて、全ての町人地である総長を代表した。町年寄はその下にあった町名主を任免し監督して、奉行所が発する「町触れ」を伝達し、収税に当たった。町触れは、町方に対して発しられた法令である。
町年寄は、樽家、奈良屋、喜多村の三家が世襲した。三氏は家禄を与えられ、月番制で交替して勤務した。それぞれの住宅を役所とした。
町名主はそれぞれが、いくつかの町を受け持っていた。時代によって増減があったが、享保8(1723)年には、272人を教えた。町触れの伝達から、人別改、町奉行所への訴状や、届書の認証、町内の紛議や、紛争の調停をはじめ、祭礼を取りしきるなど、町内を監督した。
町名主も世襲によった。平均して5つか、6つの町を担当した。給与として、支配町内から役料を徴収することを認められていた。
大家は、家主、家守とも呼ばれたが、地主を代行して、町屋敷や、長屋の管理や、店子の監督に当たった。人別調査から、店子の身元調査、町の木戸の鍵の管理や、火災の際の水元の確保をはじめとして、多岐にわたる職責を果たした。
5人組が町民自治の最小単位として、存在した。町内の家並五軒ずつを、1組とした隣組である。
5人組のなかから、毎月交替して、1人が「自身番屋」に詰めて、火の番、木戸番や、捨て子、行倒の世話や、喧嘩の仲裁などの、雑多な町用を勤めた。自身番屋は町内事務の処理や、寄合のために設けられた番所である。はじめ地主自身が当番を勤めたことから、その語源となった。
いくつかの町ごとに、出入りする木戸が設けられていた。木戸は日中は開かれていたが“暮四つ”から“明六つ”まで閉じられ、そのあいだは脇の小木戸から出入りさせた。医師と産婆は夜間でも、自由に出入りできた。
武家地には、路上に辻番が設けられていた。町人地の木戸番は、それに相当するものだった。木戸番屋には火事に備えて、纏や、鳶口、ポンプである竜吐水、玄蕃桶などの消火道具が、置かれていた。
木戸番屋は平常の時には、1人だった。木戸の軒高は、町の軒高に準じていた。
江戸だけにかぎらず、治安が全国にわたって、きわめてよかったのは、何といっても国民の徳性が高かったからだった。他人様に迷惑をかけず、自分たちの問題は自分たちで解決する価値観がいきわたっていたから、お上を頼ることなく、このような自治が可能となったのだった。
(徳の国富論 第5章 美意識が生き方の規範をつくった )
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