トップページ ≫ 外交評論家 加瀬英明 論集 ≫ 「儀礼を以って社会を秩序せること」 外交評論家 加瀬英明
外交評論家 加瀬英明 論集
後藤新平(1857~1929)といえば、明治から大正にかけた政治家であるが、大正9(1920)年からと東京市長をつとめて、都市改造に敏腕を振るった。
後藤は逸材だった。現在の岩手県奥州市水沢区で、明治元年の9年前の安政4(1857)年に、貧しい士族の子として生まれた。後藤新平の母の理恵も偉かった。夫によく仕え、子に愛情を注ぎながら、厳しく育てた。後藤はいいつけを破ると、母に藁縄で縛られて、物置小屋にほうり込まれたと、回想している。
藩校の立正館に入学して間もなく、明治維新になった。新平は医者になることを目指して、福島県の医学校に入学した。
卒業して、愛知県立病院の医師として働き、25歳で同県県立病院の院長兼医学校長に任じられた。その後、内務省に勤務して、明治23(1890)年からドイツに留学した。
日清戦争に当たって、陸軍検疫部事務官長をつとめて、認められた。内務省衛生局長を経たうえで、台湾総督府民政長官として迎えられた。後藤は台湾経営に当たって、大きな業績をのこした。
そのために台湾の人々から、今日でも、高く評価され、感謝されている。卓越した経世家であったが、その後、内相、外相、東京市長を歴任した。首相として嘱望されながら、強烈な個性の持ち主だったために群れることがなかったから、首相の座につけなかった。
後藤は東京市長在任中の大正11(1922)年に江戸の自治制度について調査して、『江戸の自治制』と題する研究書を著わしている。
このなかで、江戸が世界でも稀な大都市であったのもかかわらず、市民の「自治精神を鼓吹」したから、「少人数役人を以て之を処理して猶綽然余裕(が)有」ったと述べている。
そして、「幕政の特色たりしは儀礼を以て社会を秩序せること是也」と、結論づけている。儀礼によって、社会が支えられていたのだ。
幕府も藩も、同じ時代にあった諸外国と較べて、善政を施いた。時代小説やテレビドラマでは、しばしば悪代官が出てくるが、それは作劇のためのフィクションであり、史実ではなかった。
(徳の国富論 第5章 美意識が生き方の規範をつくった )
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