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外交評論家 加瀬英明 論集
日本でも松の気が能舞台の背後に描かれているし、お目出会い屏風や、着物の意匠となって、永遠の生命力の象徴としての役を演じている。
日本の神々は、森と一体になっいる。今上陛下の御即位に当って、平成の大礼の中心的な祭儀であった大嘗祭が催された。大嘗祭のために、悠紀殿、主基殿と呼ばれる二つのまったく同じ構造の仮宮が、造営された。皮のついたままの木材である黒木を、組んだものである。
仮宮というよりも、小屋である。このような祭礼は、祖型を再現するものであるが、日本民族の神代からいだいてきた理想が、顕われたものだった。
『古事記』では、民を生い茂る草に譬えて、「あをひとくさ」―青人草と呼んでいるが、日本では人と自然とを、区別しない。今日でも、地方の神社のなかには、巨岩や、山を御神体として拝んでいる社がある。
精霊信仰は、一神教の神のように、神が人の上に存在しない。もっとも、一神教が世界で、今日のように大きな力を持つようになったのは、この千数百年あまりのことでしかない。私は一神教が力を振るった時代は一時的なものであって、終ろうとしていると思う。
多神教は、かつてのエジプト、古代ギリシアやローマから、今日のインド、日本までにわたるが、多神教の神々は一神教の神よりも、はるかに人間的である。神々は互に諍うし、恋もする。不倫も、盗みも働く。地上の人の世界を、そのまま天井に映したものである。
ギリシア人やローマ人には、エジプトの動物神が性に合わなかった。だが、私は動物を拝むのに、理に適ったことだと思う。動物は欲望を必要以上にもたないし、正義を振りまわして、無益な殺生をすることがない。
今日、一神教は行きづまっている。絶対性に執着するよりも、相対性を認めるほうが現実に適っている。
地球上のあらゆる国が互いに関わりあうしかない国際化の時代においては、すべての民族を一つの神の下に統合しようとすれば、大混乱が生じる。人々が至高な存在を思い描くとしても、山へ登る道がいくつもあるように、風土や文化によって神の姿は異なる。それを認めあって共存するしかないのだ。
キリスト教にも大きな変化が、生じつつある。教会(エキュ)一致(メニ)運動(ズム)とか、世界教会運動と呼ばれるエキュメニカル・ムーブメントが起って、ローマ法王がユダヤ教のシナゴーグ(教会)の祭壇の前に跪いたり、キリスト教会と他の宗教とのあいだで、対話が行われている。
これからは、多神教が甦ることになると思う。
(8章 神道は新しい世界宗教であるエコロジー教だ)
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