トップページ ≫ 外交評論家 加瀬英明 論集 ≫ 「上質な日常」と「束の間の至福」とは? 外交評論家 加瀬英明
外交評論家 加瀬英明 論集
このごろでは、寿司屋にゆくと、職人が下駄ではなく、スニ―カ―と呼ばれる運動靴を履いていて、気色が悪い。日本らしい音がなくなったのとともに、日本人らしさが失われてしまった。
保健所の通達によって、愚かしいことに寿司職人が鉢巻をすることが禁じられ、シナの料理人のような帽子をかぶらされている。職人の意気が感じられないから、興をそぐ。
力士に、褌を禁じるようなものだということが、わかっていない。帽子がそれほど衛生的だというなら、食物を運ぶウェイターや、ウエイトレス、航空会社のスチュワーデスなど、全員に帽子をかぶらせるべきだ。客だって髪が飛ぶかもしれないから、かぶせたほうがいい。
先日私は床屋で髪を刈ってもらってから。自分の頭を叩いてみた。
幕末に「ざんぎり頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」という戯れ歌が、流行った。あれから「文明開化」を休みなく進めるうちに、心の拠り所である自分の国まで、消し去ったように思われる。
うわっつらの「上質な日常」と交換したのだから、何んとも損な取り引きをしたものだ。
日比谷の帝国ホテルのわきには、百二十数年前に、洋風建築による鹿鳴館が建てられた。明治の顕官が、夫人や令嬢や、愛人を連れて、西洋を猿真似した仮装舞踏会を催して、文明開化に励んだ。今日の日本は文明開化のなれの果てなのだろう。鹿鳴館も「東京ミッド」なにやらも、仮装の空間だという共通点がある。
私は六本木ヒルズに群れている若者たちを見て、明日の日本と世界を背負うことになる彼らが、これからいったい、何のために働いてゆくのだろうかと、訝った。きっとお金を稼ぐ為だろう。
マルクス、エンゲルスはグローバリズムを先取りして、伝統文化を軽んじたが、世界がマルクス主義の、魂を否定した金への執着によってすっかり毒されてしまって、今日の惨状を迎えている。マルクスの『資本論』は、金にとり憑かれた本である。多くの人がそのおぞましさを、わかろうとしない。
先のホームページが、訪れる人々に「至福の時間」を約束しているのは、多くを語っている。正しく言えば、あっという間の「束の間」の「至福の時間」とすべきだった。今日の人々は束の間の幸せを求めて、つぎからつぎに新しい商品を、まるで追い立てられているように、買い求めている。
刹那な快感しか求めないから、先人たちがどのように生きたとか、共同体の精神や、歴史にはまったく関心がない。あとに残すものもない。
いまの人々は、必要と欲望を、区別することができない。その間の境界線が、まったくはっきりしない。だから、せっかく新しい製品を買って、その瞬間を充たされても、すぐにつぎのものが欲しくなる。
かつて地域社会では、僧侶が人々の心を預かっていた。いまでは、獰猛な企業経営者や、その配下の宣伝部員、広告代理店に働く人々が、民衆の精神を司ることになっている。
その結果、物欲の僧侶たちによって、人々が消費中毒をわずらうようになっている。これは、アメリカ人が開拓時代に先住民族のインデアンからアメリカ大陸を略取した時に、安ウィスキーをインデアンに売りつけてアルコール中毒に仕立てたうえで、代金の代わりに先祖代々の土地を奪ったのを思わせる。
つまらない商品を所有するほど、心が渇く。狭いマンションも、ゆとりがあるはずの住宅も、不必要なもので溢れている。かつて貧しかった時代には、人々は目に見えないものを大切にした。ほんとうに大切なものは、目に見えないのだ。(9章 大切なものは目に見えない)
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