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外交評論家 加瀬英明 論集
これほど必要がないものが、人々の生活を支配した時代は、かつて人間の歴史にはなかった。テレビがそのもっともよい例である。テレビがなくても飢えることがないし、雨風を凌ぐことができるし、娯楽にもまったく不自由することはない。
それにしてもテレビは、なぜあれほど節度も落ち着きもないのだろう。行儀が悪く、ふしだらな画像を、間断なく送ってくる。くつろごうにも、もともと関係のない大量の情報が流れ込んできて、安らげない。
電灯は夜、本を読むために、バスや自転車は移動するために役に立つが、テレビは不必要なものだ。テレビのCMが売りつける、ほとんどの商品も必要がない。
これほど不必要なものが力を持った時代は、なかっただろう。それに引き換えて、孝心とか、先祖への感謝の念とか、信心や、愛国心のような、まっとうな生活を営む為に必要なものが、失われるようになった。家に帰っても、不必要なものが満ち溢れているので、心が機能する隙間がない。
江戸時代には九十九パーセントの人々が目的地まで歩いた。風や花や、樹木に触れることができた。そして道すがら出会った人と、気軽に会話を交わしたものだった。いまでは車に乗って移動するから、他人と話すことも挨拶を交わすこともなくなった。
急ぐことは、心を傷つける。種を蒔き、芽がふき、花が咲き、やがて実を結ぶまでには、有機的な時間が必要だ。自動車や、地下鉄や、新幹線に乗っている時間は、無機的な時間である。人も生きているから、有機的な時間を必要としている。
人が動く速度は精神の健康と、深くかかわっている。いまの人々は、ト―キ―時代以前のコマを早回しにした映画のような、慌ただしい、滑稽な生活を送っている。人に合った速度や、大きさがあるはずである。
私たちは今日、まるで空想科学小説のなかの主人公になったような、生活を営んでいる。だが、生活の質は向上したのだろうか。
技術が発達して、経済が豊かなために、電力をふんだんに使えるのはいいが、夜が明るすぎる。
かつて行燈の光のもとに寄り集まっていた時は、相手をもっと見つめたものだった。いまでは余計なものまで見えるために、相手がよく見えない。
いつも目映い光によって、空間が満たされている。夜遅くまで、テレビが娯楽として、血なまぐさいドラマを放映しているが、こんなものを見ていたら、よく眠れるはずがない。菜種油の仄暗い光は、目を疲れさせたかもしれないが、かえって安らかな眠りをえられた。
不必要な情報にさらされた慌ただしい生活のなかで、伝来の美意識が失われていく一方、日本人の心がすさぶようになった。
都内のどこへ行っても、コンビニが二十四時間開いている。交番や、消防署や、病院ではあるまいに、二十四時間開いている必要があるのだろうかと思う。夜は眠る為にあるもので、精神を歪めてしまう。
若い夫婦がアパートを探す時には、コンビニから近いことが大事な条件となっているという話を、不動産屋から聞いた。コンビニを「冷蔵庫がわりにしている」とも、いった。そのコンビニを覗くと、現代の貝塚のようなもので、今日の若い世代がどのように索莫とした生活を送っているか、知ることができる。
どこへ行っても、自動販売機が設置されているが、これも目障りだ。通りがかった者が、ジュースを買って立ち飲みしている様子は、浅ましく映る。
本来、食物や飲み物は、卒業免状や、賞状と同じように、手渡されるべきものである。食物は神聖なものだ。硬貨を入れるにせよ、拾い食いしているのと変わらない。つくった人の心も伝わらない。感謝の気持ちが湧かない食べ方は、人をケモノにしてしまう。(9章 大切なものは目に見えない)
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