トップページ ≫ 外交評論家 加瀬英明 論集 ≫ 豊かさに噴なまれるより「耐える美しさ」を外交評論家 加瀬英明
外交評論家 加瀬英明 論集
もし、百年前の日本人が、いまの日本に生き返ったとしたら、どう思うだろうか。
生活が、かつては想像できなかったほど、快適に、便利になって、長生きできるようになっている。それなのに、人々が不平不満を鳴らし、不幸になっているのをみて、理解に苦しむだろう。
私は、まさに“百年後の世”に生きているわけだが、テレビのCMを見ていると、辟易とさせられる。どうでもよいような“改良”を施した電化製品や、自動車、化粧品などの商品を買い換えさせようと、ひたすら物質欲を煽りたてる。物への欲望だけが、世界を動かすエネルギーになっている。
テレビも乗車も、炊飯器も、カメラも、1960年代に登場してから、基本的な機能は変わっていない。それなのに、どうしてテレビのCMがあのように大袈裟に騒ぎ立てるのか、私には理解できない。
60年代になかった商品といえば、携帯電話が代表的なものだ。いま、人々の大半が、携帯電話に熱心に耳を覆っている。
しかし、人と人との温もりがある会話を、妨げているのではないだろうか、せめて、防寒用の耳あてとして役に立てばよいと思うが、いまでは母親が編んでくれた手編みの温もりの記憶も消え去ろうとしている。
コミュニケーション技術が発達したために、かえって人と人とのあいだのコミュニケーションを阻害するようになっている。携帯電話が普及するにつれて、人が直接に触れ合わなくなった。さらに進んで、声を聞かず、メールですませている。
いまの日本人は、物質的な充足をえているために、何が欲しいのか分からないから、いつも焦っている。人々がこれほど不満に噴なまれていた時代は、かつてなかったろう。
物が豊かになり、均一化した商品が満ち溢れているせいか、何事についても平等だという幻想を信じている。そのために、手が届かない恋人であれ、住居であれ、消費財であれ、自分のものにならないと、自分の力が足りないことを責める事無く、不満を昂じさせ爆発させる。
テレビや、新聞も、平等の幻想をまき散らす。ついこのあいだまでの貧しかった時代には、人々はさまざまな制約を課せられていたから、身分相応ということを、わきまえていた。与えられた場と条件に順応して、無茶な高望みをしなかった。
クレジット・カードや、銀行ローンは、幸せを買う道具であるように装っているが、不幸を増幅する装置である。どうして、現金だけで生活できないのだろうか。
今日では、手に入らない物があれば、怒ることが美徳となった。マスコミが「市民」と呼んで諂う人々は、当然の権利が侵害されたといって怒る。その怒りを衒いもなく表明することが、賄っている広告主にとって、市民らしいこととなっている。あたかも、市民である証明のようだ。新聞社やテレビ局を賄っている広告主にとって、人々が我慢して買い控えることこそ悪夢だからである。
新聞やテレビが、自制心を欠いた社会をつくることを、奨励している。このような不満を煽ることは、テレビのCMと同じように殺伐としたものである。
私は、高倉健や藤純子の任侠物の映画を好んできた。主人公が我慢に我慢を重ねた上で、爆発する。私たちは自分を投影して、喝采したものだった。
もっとも、このような現象は、日本だけに限られない。人々は貧しかった時代には、世界のどこでも忍耐した。アラン・ラッドがガンファイタ―を演じた『シェーン』や、ゲイリー・クーパーの『ハイヌーン』のシェリフも、同じことだった。耐えることが、美しかった。
今日、アメリカでも、ヨーロッパでも、人々は些細なことについて怒る。怒ることは、旧約聖書によっても、「七つの大罪」の一つとしてあげられているはずである。
「カム・バック・シェーン!」と、呼びたい。(9章 大切なものは目に見えない)
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