トップページ ≫ 外交評論家 加瀬英明 論集 ≫ 西洋の饒舌と日本の「間」
外交評論家 加瀬英明 論集
交通手段が発達したために、多くの人と知り合うようになった。知っている人の数があまりにも増えたために、人と深い関係を結ぶことができない。人間関係が軽くなり、人までが使い捨てになる。
また、これほどまで視覚が酷使された時代は、これまでなかった。
目が主役なのである。人々がテレビの愚にもつかない番組を、時間を浪費して見ている。目先がひっきりなしに変わる。アメリカのある研究によれば、今日の人は年間二万回以上、テレビや、印刷媒体や、屋外のCMに曝されるという。
視覚は好奇心によって支配されるから、散漫だ。視覚を使いすぎると、落ち着けない。動くものによって、つねに戯らされている仔猫のように、集中することができない。気づかないうちに、仔猫ほどの知能しかもてないことになる。
今日の日本人は、饒舌になった。昔から洋の東西を問わず、賢人の特徴といえば、他人の話を良く聞くことだ。話すよりも相手に耳を傾けるほうが、愛情が籠もっている。
私たちがゆとりを失ったのは、この百年以上も、西洋人を真似るようになったからだろう。そこで、間が抜けた生活を送っている。
英語をはじめとするヨーロッパ諸国には「間」という言葉がない。英語ではintervalとか、spaceというが、私たちの「間」と違う。洋楽の用語ではrest(休止)が、それに近いものだ。
だが、邦楽で間が重要な独立した音であるのと違って、洋楽のrestは端役にすぎない。邦楽では休拍である間が、リズムを生む。洋楽が流行しているのも、日本人を堕落させた。
若者までが間を失ったために、「癒し」を求めている。軟弱になった若者が「癒しサロン」へゆくと、細切れにされたBGMが鳴っている。
私はピアノが登場した後の洋楽を、好まない。洋楽は独立した芸術となってから、日常生活の営みから切り離されて、人工的なものになった。人工的に音の協和をつくり、そのおもしろさを楽しむようになってから、本来の音楽から遠ざかって、堕落した。
しかし、アジア・アフリカの音楽は、心の囁きか、叫びのようだ。邦楽を含めて、神事や、芝居や、宴と一体となっている。
音楽は全身で感じるべきものだ。知的なものではない。洋楽は近代に入ってから、精緻に組み立てられるようになって、即興する場がないから、息が詰まる。洋画が隅々までぬられて、空白がないのと同じことだ。
こうした、すべてを組織しようとする発想が、産業革命を生み、共産主義を生み、資本主義のグローバリズムを生んだのである。
即興を本質とするジャズのほうが自然だから、私たちにはなじみやすい。ジャズは出自がアフリカであるために、人の自由な生きかたに近い。
「徳の国富論」 十章 親を粗末にする者は国や人を愛せない
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