トップページ ≫ 社会 ≫ 弊社 船木キャップの講演実録連載(2)
社会
特に埼玉県、さいたま市の政治、経済などはじめ社会全般の出来事を迅速かつ分かりやすく提供。
2015年10月15日とだわらび倫理法人会モーニングセミナー講話「メディア人として、日本創生を考える」より
朝鮮中央放送だけに限らず、北京放送もモスクワ放送も日本語番組を放送しておりましたが、メディアの怖さを実感しました。メディアは、思想を植え付けるためにも利用される、プロパガンダの役割も果たすのですから、子ども心に怖いなあと思いました。とはいえ、海外の状勢をラジオで知ることができ、このBCLをやったことで、語学や国際情勢に興味を持ち始めました。海外からの短波放送を聴く一方、深夜放送に傾倒して行ったのもこの頃です。特に糸居五郎さんという伝説のディスクジョッキーがニッポン放送の「オールナイトニッポン」を担当していて、軽妙なトークと音楽がリズミカルに展開するのが、かっこいいと思いました。糸居さんの深夜放送を聴いたことにより、私自身ディスクジョッキーになりたいという夢を抱くようになったのです。明星小学校を卒業し、東京都福生市の福生第一中学校へ進学しました。福生という横田基地に隣接する土地柄なのか、アメリカ文化に溢れた街でした。
福生1中の放送委員会に入りましたが、お昼の放送でハードロックがかかってしまうという学校だったのです。先輩たちも音楽に精通し、様々な音楽と出会ったのもこの頃です。この頃は「絶対に将来ディスクジョッキーになるんだ」という夢があったので、お昼の放送をディスクジョッキー風にやったり、家に帰ればトランスミッター付きラジカセを用いて、ミニFM局を開局したりしました。BCLも深夜放送を聴くことは未だに続けておりますが、当時のFM放送は、例えば首都圏なら、NHK-FMとFM東京の2局だけで、もっと自由な放送を、という欲求が私だけじゃなく、当時の若者にはありました。
日本に限らず、当時のヨーロッパは、国営放送がつまらない内容の番組ばかり流していて、それが我慢ならない若者を中心に、非合法のラジオ局を開設したり、メボ二世号を代表する海賊放送局が続々と開局したのです。私もFMのワイヤレスマイクを改造した送信機でハイパワーのFM放送を行ったこともあり、半径10kmに電波が飛んだので、リスナーも多かったのですが、電波管理局から注意を受けて、閉局せざるを得ませんでした。(つづく)(全4回)
バックナンバー
新着ニュース
- エルメスの跡地はグッチ(2024年11月20日)
- 第31回さいたま太鼓エキスパート2024(2024年11月03日)
- 秋刀魚苦いかしょっぱいか(2024年11月08日)
- 突然の閉店に驚きの声 スイートバジル(2024年11月19日)
- すぐに遂落した玉木さんの質(2024年11月14日)
特別企画PR