トップページ ≫ 外交評論家 加瀬英明 論集 ≫ 朝鮮戦争がアメリカに与えた教訓
外交評論家 加瀬英明 論集
まず、第二次大戦がトルーマン政権のもとで終わった時から、主な舞台にアジアを取りあげることによって、始めよう。
大戦がアメリカを中心とした連合国の勝利によって終わり、平和が甦った。
トルーマン政権は、ヨーロッパと日本の復興に取り組みつつ、軍事予算を大きく削った。
トルーマン政権は内に籠ろうとしたが、やがて外へ向かうことを、強いられた。
ソ連が東ヨーロッパを支配して、つぎつぎと共産政権を樹立してゆくかたわら、西ヨーロッパからギリシアまでの諸国で、左翼運動を煽って、共産化しようと狙った。
そこで、トルーマン政権は1948年から1953年にわたって、ヨーロッパの経済復興のために、130億ドルを拠出するという「マーシャル計画」を実施した。今日のドル価値に換算すると、1250億ドル(約13兆7500億円)に当たる。
アメリカはこの他に、大戦中からイギリスや、ヨーロッパの占領地域の民生のために、162億5000万ドルを、注ぎ込んだ。
戦後、初代統合参謀本部議長となったオマール・ブラッドレ―元帥が、1950年6月に夫人を伴って、ハワイ、マニラ、東京、沖縄を視察して回った。だが、南朝鮮には立ち寄らなかった。
韓国は1948年に、アメリカの占領下から独立したが、アメリカは南朝鮮にまったく関心がなかった。韓国は李承晩初代大統領以下その一族をはじめ、政治家が上から下まで私腹を肥やして、腐敗しきっていたので、関わりたくなかったのだ。
その前年に、統合参謀本部がトルーマン大統領に、朝鮮半島には「戦略的価値がほとんどない」と、勧告していた。
マーシャルは、トルーマン政権の国防長官だったが、「アメリカの権威を大きく傷つけることなく、南朝鮮から手をひくべきだ」と、進言していた。それに、国防予算を大きく削減したために、朝鮮半島に占領軍を長く置くことができなかった。
この年1月に、アチソン国務長官がワシントンのナショナル・プレス・クラブ(全米記者クラブ)で講演して、アメリカの防衛線がアメリカ領のアリューシャン列島から、日本、台湾、フィリピンに弧を描いていると述べたが、韓国が除外されていた。
1950年6月25日に、北朝鮮人民軍が、戦車部隊を先頭に立てて、38度線を突破して、韓国に雪崩れ込んだ。韓国軍は、潰走した。
ソ連軍はアメリカ軍よりも早く、朝鮮半島から撤収していたが、朝鮮人民軍に訓練を施して、大量の兵器を供給していた。
のちに、トルーマン大統領がマッカーサー元帥を解任した時、そのあとをついたリッジウェイ大将は、朝鮮戦争が起こった時に、マッカーサーの指揮下にあった第8軍司令官だった。リッジウェイは当時のアメリカ軍の装備について、「恥ずかしくなるほど、貧弱なものだった」と、回想している。
トルーマン大統領は、北朝鮮軍が韓国を奇襲すると驚愕し、直ちに「ソ連の仕業だ」と断定して、日本にある軍需品を韓国軍に供給することを命じた。
トルーマン大統領は、北朝鮮軍が韓国を奇襲した五日後に、北朝鮮軍を空爆し、六日後に、在日米軍に南朝鮮に出動することを、命じた。
9月15日に、マッカーサー元帥率いるアメリカ軍が、38度線から60キロ南の黄海沿岸にある仁川に奇襲上陸して、北朝鮮軍の退路を断った。
米韓軍は11月なかばに、旧満州が接する鴨緑江のすぐ近くまで、到達した。
ところが、中国の人民解放軍が、義勇軍として大挙して鴨緑江を渡って、米韓軍を攻撃した。
米韓軍は不意を打たれて、総崩れとなり、12月なかばには38度線まで退いた。人民解放軍と、朝鮮人民軍が再び韓国に侵入して、ソウルを一時だったが、再度、占領した。
もし、この時に、中国の人民解放軍が介入することができなかったとしたら、韓国のもとで朝鮮半島が統一されていた。そうすれば、北朝鮮の核兵器開発問題も、9万人以上の在日の拉致問題も、起こることがなかった。
戦線は、38度線にほぼ沿う形で、膠着した。
アメリカはいつまで超大国でいられるか 第2章アコーディオン国家・アメリカ
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