トップページ ≫ 社会 ≫ 日本そして世界がボクシングに沸いた時代
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5月末にボクシング好きの仲間6人で、東京スカイツリーを横目に、ボクシング漫画『あしたのジョー』(原作・高森朝雄 作画・ちばてつや)ゆかりの地、泪橋(なみだばし 荒川区と台東区の境)を訪ねた。この漫画は’60年代末から’70年代にかけて「週刊少年マガジン」に連載され、大人気を獲得し、今も根強い人気を保つ。主人公の矢吹丈が所属する丹下ジムがここにあったという設定だが、今は橋も川もなくなり、軒を連ねていた日雇い労働者用簡易宿泊所は、格安ながら普通のビジネスホテルと化している。近くの商店街にはジョーの像が建っていたが、ライバルだった力石徹の像も建てて欲しかったというのが私の思いだ。
ジョーと闘ってリング上で絶命した力石には、当時、全国のファンが悼み、編集部に弔電や香典が多数送られてきた。「僕たち仲間で力石のお葬式をやろうと思うんです」という涙声の電話が何本もあったという。詩人、歌人としても知られ、若者の教祖的な存在だった寺山修司率いるアングラ劇団「天井桟敷」の若い劇団員たちの間でも力石の告別式の話が持ち上がり、彼らの手で1970年3月24日、出版元の講談社の講堂で700人以上のファンを集めて挙行された。この時、式場のすぐ下の階が私の仕事場だったが、何も事情を知らず、外部の人が大勢やってきて、何だかやたら騒がしいなあという印象しかなかった。
しかし、ジョーの像を見た1週間後、かつての力石ファンの気持ちを実感として共有することになった。元ヘビー級王者モハメッド・アリが74歳で亡くなった。彼が初めて世界タイトルを獲得した頃から、その言動が注目され、ベトナム戦争時に徴兵拒否したことでタイトルを剥奪されるに至り、広く世界に知られるようになった。3年のブランクの後、リングに復帰したものの、1971年、時の世界王者ジョー・フレイジャーに敗れた。この頃、減量が主目的だったが、私も神田のYMCAボクシング部に入り、左ジャブの練習を繰り返していた。
翌72年4月にアリは日本武道館でマック・フォスターと戦った。後方の席ながら、この試合を生で見て、独得のフットワークと的確な左ジャブに見とれた。その後、アリの試合は必ずテレビで見ていた。当時は民放で衛星中継していたので、多くの日本人がヘビー級の試合を楽しめた。今は放送はWOWOWに限られ、ボクシング団体が増えて世界王者が何人もいるので、誰がヘビー級チャンピオンなのか知る人は少なく関心も薄れた。
アリは1974年に圧倒的不利の予想を覆し、象をも倒すと言われた猛打のジョージ・フォアマンを倒して王者に返り咲いた。第8ラウンド、右ストレートが決まると、手応えを確信したのか、前のめりにゆっくり倒れか
かる相手をじっと見つめていたアリの姿が印象的だった。この試合についてはノーマン・メイラー著『ザ・ファイト』(訳・生島治郎 集英社刊)という秀逸なレポートがあり、再読していたら、思わずワンツーを繰り出したくなった。
翌75年夏、マレーシアの首都クアラルンプールで、チャンピオンとしてジョー・バグナー(英国)の挑戦を受けた。この試合でのアリを週刊誌のグラビアページで特集することになり、私は編集担当としてカメラマンに同行、アリの宿舎ヒルトンホテルに1週間滞在した。彼はよく喋った。サービス精神もあふれていた。彼の部屋に入り込んだり、直接話をする機会もあり、ハスキーがかった彼の声は帰国後も耳にこびりついていたほどだ。
この頃は世界で最も有名な人物とも言われた。ボクサーという枠を超えた発言や行動によるのだろう。ボクシングについては、彼の秀れた技術だけでなく、ライバルに恵まれたことも確かで、彼らがヘビー級黄金時代を築いたと言える。ともにアリと3度闘ったジョー・フレイジャーとケン・ノートン、そして世紀の一戦の相手、ジョージ・フォアマン。ヘビー級としては小柄ながら全身から闘志をみなぎらせ、前へ前へと突進して左フックを放つフレイジャー、強打でアリの顎の骨を折り、筋骨隆々の体に整った顔立ちを買われて現役選手時代から映画出演していたノートン、彼らとの激闘が見る者を熱くさせたが、それがアリの寿命を縮めたのだろう。これは対戦相手についても同様で、アリより若いフレイジャーとノートンはすでにこの世にはいない。
合掌
山田 洋
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