社会
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8月15日は71回目の終戦記念日だ。終戦の1年前に生まれ、南埼玉郡の農村で育った私には、戦争そのものの記憶も、焼け跡とか戦争の傷跡を見ることもなかった。戦後数年たって、母に連れられて上野動物園に行った時、初めて戦争が残した生々しい光景を目にして衝撃を受けた。
高崎線の列車が赤羽を過ぎたあたりから窓外の景色が一変、線路の西側の斜面は粗末な小屋でびっしり埋めつくされている。空襲で家を失った人々の仮住まいだ。上野駅に着くや、人々がごった返すなか、黒ずんだ小さな影がちょろちょろ動き回っている。当時の私より5~6歳年上で、浮浪児と呼ばれた子供たちだった。先程見た粗末な仮住まいにさえ住むことができないのだ。
1945年3月10日、米軍のB29爆撃機の大編隊が投下した焼夷弾により東京の下町は壊滅した。10万人が死亡し、100万人が被災したとされる。上野も焼け野原となったが、上野駅は焼けずに残ったので、被災者たちが集まった。京成上野駅から国鉄(JR)上野駅に通じる地下道が最も多く、1000人に及んだという。そのうちの1~2割を浮浪児が占めた。
彼らのことを書いた『浮浪児1945- 戦争が生んだ子供たち』(石井光太・著新潮社)を新聞記事で知り、自分の記憶の奥底を探るような気持ちで読み始めた。2年前の刊行だが、着実に版を重ねているのは私のような読者が少なくないからだろう。著者は1977年生まれというのが意外だった。20代の頃からアジア、アフリカ、中東の貧しい国々を回りながら、貧困や紛争、犯罪をテーマにしたルポルタージュを書いてきた人だ。21世紀に入り、これらの国々が経済成長を始めると、為政者は町の浄化策に乗り出し、街頭で物売りや物乞いをしていたストリートチルドレンを排除し始めた。社会の大きな問題に蓋をし、うわべだけを飾り立てるやり方に疑念を抱いたのが、日本の戦後の浮浪児を書こうと思い立ったきっかけだという。
厚生省の調べでは戦争孤児数は12万人。浮浪児数は3万5000人との推定があるが、実際はその何倍にもなったはずと著者は見る。戦災孤児のほかに、住む場所を失って街頭で暮らすことになった子供や、家庭の事情で家出してきた子供がいたからだ。しかし、浮浪児の実態はほとんど記録されてこなかった。このままでは歴史上から消されたままになると案じた著者が、2009年から5年間にわたり、当時の実態を探ろうと残された手がかりを頼りに取材を進めた。著者本人には浮浪児との接点がないので、当事者たちを数多く探し出し、面談や書き残された文章により彼らの姿を描き出そうとした。
1945年8月15日で戦争は終わるが、食糧事情は極端に悪化、浮浪児はそのあおりをもろに受けた。空腹をかかえた彼らは何でも食べた。食べ物が手に入らない小さな子供は次々に死んだ。当時の新聞では「上野の餓死者は1日平均2.5人」となっているが、実際はもっと多かったようだ。(つづく)
山田 洋
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