トップページ ≫ 外交評論家 加瀬英明 論集 ≫ 日本の外交を阻害する日本の外務省
外交評論家 加瀬英明 論集
日米の外務省の共通点といえば、日本の外務省の別名が「霞ヶ関」で、アメリカでは国務省が「フォギー・ボトム」(霧の関)と、呼ばれていることだ。
もう一つの共通点といえば、両国とも外交官が他の省庁から、嫌われている。
問題は、外交官の宿命だろうが、ある外国の専門家になると、その国に魅せられてしまうことだ。そこで、その国の代弁者になるという罠に、はまりやすい。
もし、私が南太平洋のある国の文化と言語に打ち込んで、外交官となったとしたら、首狩り習俗を含めて、その国に強い親近感を持つことになろう。
その国にすっかり気触れて、日本の国益を忘れるようになる。わが外務省にも、気の毒なことに、国籍不明になった犠牲者が多い。
私は福田赳夫内閣の発足時に、第一回福田・カーター会談を控えて、最後の詰めを行なうことを頼まれた。首相特別顧問の肩書きを貰って、ワシントンに入った。
その前には、園田直官房長官から第一回日米首脳会談に当たって、共同声明の”目玉”になるものがないか、相談を受けた。
私はカーター大統領の後見役だった、民主党の元副大統領のハンフリー上院議員や、カーター政権の国家安全会議(NSC)特別補佐官となった、ビグネフ・ブレジンスキ教授が日本の研究所に夫妻で招かれて、東京で一年間過ごした時に、夫婦ぐるみでつき合って、親しくなった。
私は園田官房長官に、”秘策”を授けた。総理も、「それだ」ということになった。
そのうえで、山崎敏夫アメリカ局長と会った。すると、「そのようなことが、できるはずがありません」と、冷ややかにあしらわれた。私は首脳会談へ向けて、それまで両国が打ち合わせた記録である、トーキング・ペーパーを見せてほしいと求めたが、峻拒された。
「役割分担でゆきましょう」と促したが、木で鼻を括ったような態度で、終始した。
私はジョージア州アトランタの郊外の、寒村プレインズに飛んだ。大統領に当選したカーター氏の郷里で、次期大統領が政権移行準備事務所を構えていた。
プレインズでは、次期大統領の母君のリリアン夫人、次期政権のハミルトン・ジョーダン官房長、ジョーディ・パウウェル・ホワイトハウス首席報道官をはじめとした側近、弟のビリー・カーターと知り合った。とくに次期大統領が溺愛していた、妹のルースと親しくなった。
トーキング・ペーパーのほうは、ワシントンに発つ前に、鳩山威一郎外相に見せてもらったから、それで凌いだ。
もっとも、前年から引き受けていた講演があったので、すぐにワシントンへ出発できず、総理一行がワシントン入りした前日に着いて、ホワイトハウス、国務省、国防総省、上院などをまわった。出発前に、電話で話をまとめていたから、念押しのようなものだった。
翌日、ホワイトハウスの前にある迎賓館で、総理一行と合流して、首尾よくいったことを、報告した。
福田・カーター会談の共同声明では、私の献策が目玉になった。
私は二つの内閣で、園田外相の顧問として、アメリカにたびたびお伴した。
園田外相は”ハト派”で、私は”タカ派”だったが、妙に気が合った。園田氏は外務官僚を「理路整然たるバカ」と、呼んだ。
その後、私は谷川和穂防衛庁長官がワシントンにおいて、ワインバーガー国防長官と防衛技術交換協定を結んだ時に先行して、根回しを手伝ったが、外務省が嫉妬して、妨害したのに、閉口した。防衛駐在官事務所が、ウォーターゲート事件で有名になった、ウォーターゲート・ビルにあったが、防衛駐在官は大使の指揮下にあるのに、本庁と連絡するのに当たって、大使館を使わなかった。
アメリカはいつまで超大国でいられるか 第8章日本はいつまで、アメリカに国防を委ねるのか
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