トップページ ≫ 外交評論家 加瀬英明 論集 ≫ アメリカの大顰蹙を買った宮沢喜一首相の英語
外交評論家 加瀬英明 論集
私はワシントンに通ってきたが、親しい議員や、政権幹部の自宅のパーティに招かれると、諸国の外交官と同席する。だが、これまで日本の外交官と、一度も出会ったことがない。上級公務員試験に合格しようと、脇目もふらずに勉強に没頭したために、教養を欠いて、社交下手だから、お呼びでない。
このごろの日本には、教育が過剰なために、教養がない男女が多すぎる。
私はフォード政権のラムズフェルド国防長官と、下院議員時代から親しかった。ラムズフェルド長官のもとに、ケネス・エードルマン補佐官がいた。
フォード大統領が民主党のカーター候補に敗れると、エードルマンはスタンフォード研究所(SRI)戦略研究センター(SSC)の研究員となったが、ブッシュ(父)政権で国連大使として、返り咲いた。
すると、「前政権で日本の外交官に会いたいといって、何回、電話をしても相手にされなかった。国連大使になったら、会いたいとしつこく言ってくるが、会いたくない。彼らは肩書きとしか、付き合おうとしない」。そう言って、憤っていた。
私は福田内閣時代に、三原朝雄防衛庁長官によってつくられた、日本安全保障戦略研究センター(安保センター)の理事長をつとめた。三木内閣の坂田道太防衛庁長官が、申し送ったものだった。
そのようなことから、外国から賓客がくると、坂田長官から同席するように求められることがあった。そのつど、外務省の若い駆け出しのキャリアの事務官が、通訳に当たった。
私はわきにいて、彼らの英語が下手なのに、愕然とさせられた。しばしば誤訳したが、訂正したら、有為な青年の将来を傷つけたことになるから、黙っていた。
英語好きな日本人は、警戒したほうがよい。外国語は道具にしかすぎないのに、外国語に憧れると、人が道具に仕えるようになる。
外務省ではなく、大蔵省出身だったが、宮沢喜一首相がその典型だった。英字新聞をこれみよがしに小脇に挟んでいたことで、有名だった。だが、在任中に英語で「アメリカにコンパッション(憐み)を示したい」と述べたために、『ニューヨーク・タイムズ』紙をはじめ、アメリカのマスコミを、激昂させた。本人はコンパッションが、「共感」の意味だと、勘違いしていた。
1992(平成4)年8月に、宮沢内閣が天皇ご訪中について、14人の有識者から首相官邸において個別に聴取したが、私はその一人として招かれた。
私は陛下が外国に行幸されるのは、日本を代表して、その国を祝福されるために、お出かけになられるものだが、中国のように国内で人権を蹂躙している国は、ふさわしくないと、反対意見を述べた。
その前月に、外務省の樽井澄夫中国課長が、私の事務所にやってきた。「私は官費で中国に留学しました。その時から、日中友好に生涯を捧げることを、誓ってきました。官邸にお出掛けになる時には、天皇ご訪中に反対なさらないでください」と、懇願した。
私が天安門事件以降の中国の人権抑圧問題を尋ねると、「天安門事件の前から、中国に人権なんてありません」と、悪びれずに言ってのけ、水爆実験をめぐる問題についても、「軍部が中央の言うことを聞かずに、やったことです」と、答えた。
私が「あなたが日中友好に生涯を捧げられるというのは、個人的なことで、わが国の国益と、まったく関わりがないことです。私はご訪中に反対するつもりです」というと、肩を落として、悄然として、帰っていった。
任地の代弁者になってしまう、不幸な例だった。
アメリカはいつまで超大国でいられるか 第8章日本はいつまで、アメリカに国防を委ねるのか
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