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外交評論家 加瀬英明 論集
私はいま、中国ウォッチャーの第一人者として時めいている、宮崎正弘氏より10年年長だが、40年来の同志で、漢籍でいう忘年交を続けている。
2014年7月に宮崎氏が、渡部亮次郎氏が主宰するブログ『頂門の一針』に、寄稿していた。
渡部氏は、私と同じ年だが、福田赳夫内閣から鈴木善幸内閣にわたって、苦楽というより楽をともにした、多年の親しい友人である。
渡部氏と、NHKの政治記者だったところから親交があったが、福田内閣の園田直官房長官が外相に転じた時に乞われて、政務秘書官として引き抜かれた。
先にも述べたが、私は園田氏とは、公私ともに気が合った。二人になると「直(ちょく)さん」と呼んだが、外相顧問として手助けしてほしいといわれて、渡部秘書官と二人でアメリカに出かけるなど、しばしば二人三脚を楽しんだ。
宮崎氏は『頂門の一針』のなかで、1980年に東京で日米有志による『日米同盟今後の20年』会議が開催されたことを、回想している。
「1980年は『安保改定』から20年。岸信介が日本側代表となり、米国からはフォード前大統領以下、上下院議員が大挙、日本に押しかけ、『20周年を祝い、次の20年を考える国際シンポジウム』が開催された。
これは、民間の発議により『日本安全保障研究センター』(加瀬英明理事長、三好修所長)が米国のシンクタンク『ヘリティジ財団』との共催で、評者(注・宮崎氏)は広報責任者として、会場のホテルに一週間ほど、泊まり込んだ。
そして、このシンポジウムで、安保再改定が提議されたのである。
しかし、日米両政府によって、再改定の提議はまったく無視され、マスコミは殆ど報じなかった。時代環境は、それから30年以上を閲しても、まったく変わっていない。日本の自主独立の気概は、まだ本格的に燃えあがってはいない」
日本安全保障戦略研究センターは、1978(昭和53)年に発足した。
いまから当時を振り返ると、隔世の思いがする。今日と較べて、まだ、日本人がはるかに正気を保っていた。
先の戦争の記憶が、あのころまで生きていたからだろう。戦前の日本人の気概が、消えていなかった。
私にとって、 日本は独立国であるはずだったのに、アメリカによって一方的に保護されていることに、忸怩たるものがあった。戦後時がたつにともなって、戦前、戦中の体験が風化するにしたがって、国民の大多数がアメリカによる保護に馴れて、無責任な平和主義が、蔓延るようになった。
三木内閣当時から、アメリカ政府から、両国間で民間の防衛問題研究所による共同研究を行ないたいと求められていたが、日本にそのような民間研究所が存在しなかったために、懸案となっていた。そのようななかで、三原朝雄防衛庁長官から、私に日本側のフォーラムをつくってほしいと、求められた。
アメリカ側はスタンフォード研究所(SRI)戦略研究センター〈SSC〉が、窓口となった。1977年にワシントンにおいて『北東アジアの安全保障についての日米会議』が催され、ホルブルック国務次官補(アジア担当)をはじめ、国防総省や、統合参謀本部の幹部、上下院議員が出席し、私、三好修京都産業大学教授、杉田一次元陸幕長、田久保忠衛時事通信社外信部長など6名が、参加した。
カーター新政権の在韓米軍撤退方針を中心として、熱論が展開され、その後、カーター政権が在韓米軍撤退策を撤回する契機の一つとなった。
この時に、東アジアの安全保障について、日米共同民間研究を行なうことが、合意された。
同年、ワシントンにおいて、第一回目の会議が催され、防衛庁の竹岡勝美官房長より、統合参謀本部に対して、私たちの訪米について協力を要請する公文書が送られた。三原長官、丸山昂事務次官、久保田卓也国防会議事務局長が赤坂の料亭で、私たちを励ます席を設けてくれた。
1978年に入って、東京で2回目の共同研究会議が催された。
共同研究が始まったことから、桜田武日経連会長を代表とする日本安全保障戦略研究センター設立準備会が発足し、江崎真澄自民党政調会長、三原前長官をはじめとする歴代の防衛長官や、政財界人が名を連ねた。
私が理事長、三好教授が所長となった。勝田吉太郎京大教授、加藤寛慶大教授、福田信之筑波大学副学長、村松剛筑波大教授、栗栖弘臣前統幕議長、三輪良雄元防衛事務次官などが理事、顧問として桜田会長、中曽根康弘、中川一郎、金丸信、春日一幸各衆議院議員などが、名を連ねた。
ホテル・オークラにおいて、発足披露パーティが催され、桜田会長をはじめ政官財界から多くの出席をえて、丸山防衛事務次官をはじめとする来賓が、祝辞を述べた。
安保センターの発足は、大きく報じられた。
読売新聞が「日米安保強化へ民間団体『日本の役割を増大』15日に設立」という見出しを掲げて、「その設立趣意書では、アメリカのアジア離れと極東ソ連軍の増強による相乗効果で、『北東アジアのアメリカ優位の軍事バランス』が完全に崩れたとし、(中略)日米の同盟関係(安保条約)の第三次改定が不可避だとの立場をとっている。日本側の何らかの努力によって、条約の双務性を増やすことにねらいがあるとみられ、安保見直しを掲げた同センターの発足は、防衛政策の責任者だった自民党有力者が加わっているだけに、内外で議論を呼びそうだ」と述べ、産経新聞は「キナ臭い安保研究センター」と、論評した。
安保センターが主催した、もっとも大きな会議が、宮崎氏が回想した、先の1980年8月に行なわれた日米安保条約発効20周年を記念した、セミナーだった。
私は日本を再び独立国とするために、日米安保条約を対等な防衛条約に改めなければならないと、信じていた。
安保センターは、政府の肝煎りで生まれた。そのために、安保条約の第三次改定をうたった設立趣意書を、福田総理、金丸防衛庁長官、丸山事務次官などに、事前に目を通してもらったが、政府からも、与党からも、異論が出なかった。
今日でも、アメリカは多くの国々と軍事条約を締結しているが、アメリカは日本とだけ、一方的に保護することを約束する条約を結んでいる。
日本よりも力がない、韓国、フィリピンの米韓、米比共同防衛条約をとっても、双務条約となっている。人口がわずか40数万人の小国であるルクセンブルクも、北大西洋条約機構を通じて、韓国や、フィリピンと同じように、アメリカとのあいだに対等な攻守同盟条約を結んでいる。
2014年7月に、集団的自衛権の行使について見直す閣議決定が、ようやく行なわれた。
反対勢力は、日本を「戦争ができる国にしてはならない」と叫んできたが、戦える国でなければ、侵略を抑止することができない。備えることがなかったら、中国に尖閣諸島だけではなく、沖縄県も奪われてしまうことになろう。
アメリカが強要した日本国憲法は、日本をアメリカの属国とする、憲法を装った不平等条約だ。今日の日本の平和主義は、胡散臭いものだ。
他人の施しによって、贅沢な暮らしをしている者が自慢して、見せびらかしているようなもので、恥ずかしいことだ。
アメリカはいつまで超大国でいられるか 第8章日本はいつまで、アメリカに国防を委ねるのか
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