トップページ ≫ 外交評論家 加瀬英明 論集 ≫ 歴代首相も公明党も、真剣に検討していた日本核武装論
外交評論家 加瀬英明 論集
日本は戦後、時を重ねるごとに劣化してきた。
私が最も敬愛した、アメリカの女性は、他界してしまったが、ニューヨークに住んでいた。イフジーン・サルツバーガー夫人である。
『ニューヨーク・タイムズ』社の持ち主であるサルツバーガー家の長男だった。小柄だったが、いつも矍鑠としていて、好奇心に溢れていた。小気味がよいほど、潑剌とした人だった。
私がアメリカに来ることを知ると、タイムズ・スクエアに面している、『ニューヨーク・タイムズ』本社の役員食堂で、『タイムズ』紙の編集幹部を集めて、ゲストと質疑応答を行なうことから、「エディトリアル・ランチョン」と呼ばれる昼食会を催してくれたり、ニューヨークの郊外のスタンフォードにある邸宅で、アーサー・サルツバーカー社主兼社長や、夫人の友人とともに、食事を招いてくれた。
そういう時に、夫人は日本の国内の政治状況や、対外政策について突っ込んだ、的確な質問をした。
ある時に、ニューヨークを訪れたところ、マンハッタンの岸を洗うハドソン川の上流の私邸で、私たち夫婦を招いて、晩餐会を催してくれた。
その席に、『タイムズ』紙の大記者と呼ばれたジェームズ・レストン記者の他に、夫人の古い友人で、前大戦の最後の年に陸軍長官をつとめた、ジョン・マクロイが招かれていた。
私はマクロイ元陸軍長官が、トルーマン政権による原爆投下を決定したホワイトハウスの会議に参画したことを、知っていた。
私は広島、長崎に対する原爆投下を話題にして、「もし、あの時、日本が原子爆弾を一発でも持っていて、アメリカのどこかに落とすことができたとしたら、日本に核攻撃を加えたでしょうか」と質問した。すると、レストンが驚いて、「なぜ、そんな当たり前のことを質問するのか。訊かなくても、答えが分かっているだろう」と、口をはさんだ。
私は「これまで原爆投下の決定に参画した人に会ったことがないので、確かめてみたかった」と、答えた。
すると、マクロイが「もちろん、あなたも答えを知っているだろう。もし、日本があの時に原爆を一発でも持っていたとしたら、日本に対して使用することはありえなかった」と言った。
広島の平和記念公園の慰霊碑に、「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませんから」という言葉が刻まれているが、核兵器を持たないために、再び悲惨な核攻撃を招くような、過ちは繰り返さない、という誓いとして読まねばなるまいと、あらためて思った。
1961(昭和36)年に、池田勇人首相がアメリカのラスク国務長官と、箱根で会談した時に、「日本も核武装したい」と述べて、ラスク長官を狼狽させた。
池田首相の首席秘書官をつとめた伊藤昌哉氏が、回想録である『池田勇人その生と死』(至誠堂、1966年)のなかで、次のように述べている。
「私が、池田のところへ身を寄せてまもなくのことだから、昭和33年の5月ごろのことだったと思う。ある日、池田は、西ドイツの防衛問題に関する新聞記事を読みながら、いきなり、『日本も核武装しなければならん』と言った。私は大いに驚いた。
『広島は世界ではじめて、原爆の被害をうけたところです。その地区からの選出議員が、核武装を提唱するなどとは、とんでもないことですよ』と、私は答えた。
かねてから池田は、『日本の国は日本人の手で守らなければならない』と考えていたので、なにかのとき、うっかり失言されてはたまらないと、私はあわてたのだ。
通常兵器による自衛隊はあるにしても、それは核兵器をもつアメリカの戦略との一環に組み込まれているものである。核戦力をもつということは、ひとつの国防体系の完結を意味する。
私も、日本独自の防衛体制を考える池田の言葉が、全面的にまちがっているとは思えなかった。(中略)
このことがあって以後、池田は二度と核の問題にはふれず、核実験反対、核保有反対の立場をつらぬいたが、『日本の国は日本人の手でまもらねばならぬ、他人の世話になってはいけない』という思いが、消えたわけではなかった」
佐藤栄作首相が、1964(昭和39)年に、ライシャワー駐日大使を首相官邸に招いた時に、日本も核武装すべきだと、熱心に説いた。
今日では、ライシャワー大使が、この会談について国務省へ送った公電が、公開されているが、この時に佐藤首相は「日本の世論が核武装を受け入れる準備が、まだできていないが、これから教育しなければならない」と語り、「日本は過去のように『帝国主義的野心』がないから、アメリカが(日本の核武装について)心配する必要がない」と、説いている。
1967(昭和42)年1月の総選挙で、公明党がはじめて衆議院に進出し、25人を当選させた。
その翌月に、公明党が国会内ではじめて代議士会を開いた時に、「日本も国民を守るために、最後の防衛力を備えねばならない。核武装すべきだ」という提言が、論じられた。
西村眞悟防衛政務次官が、1999(平成11)年に国会において、核兵器について論じるべきだと発言したために、更迭された。私はこの時に、35年前だったら、どうだったのだろうかと、訝った。
私は核武装の是非を、論じているのではない。西村発言をめぐる空しい騒ぎは、日本が時の経過とともに落魄したことを、示していた。
インドのフェルナンデス国防相の話に、戻ろう。
私はフェルナンデス国防相のもとで、インドが核武装した直後に、国防相を訪ねた。
国防省はかつてイギリス総督府だった、壮麗な建物のなかにある。国防相の執務室に入ると、それまでは壁にガンジー翁の肖像写真しかかかっていなかったのに、広島の原爆記念ドームのカラーパネルが、追加されていた。
フェルナンデス国防相がパネルを指して、私に「どうしてここにこの写真があるのか、もちろん、分かるね」と、悪戯っぽくたずねるので、「核を持っていないと、核攻撃を招くという教訓を示すためでしょう」と答えると、深く頷いた。
アメリカはいつまで超大国でいられるか 第8章日本はいつまで、アメリカに国防を委ねるのか
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