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外交評論家 加瀬英明 論集
日本語には明治まで、「宗教」という言葉がなかった。
それまで日本語には、宗門、宗旨、宗派という言葉しかなかった。他神を斥けることがなかった。
明治になって、「レリジョン」という西洋語が入ってくると、「レリジョン」は自分だけが正しく、他神を拒んで排斥するもので、それまでの日本人の発想のなかになかった。そのために、「宗教」という新しい翻訳語を、必要とした。
日本神話では、アマテラス(天照)大御神によって代表される、外来神である天つ神が降りてこられると、土着のオオクニヌシノ(大国主)命の国つ神と、争うことなく習合した。のちになって、新来の神と呼ばれた外来神であった仏教が伝来すると、神仏がやはり対等な神として、習合した。
中国と、朝鮮では、儒教が仏教や、他宗を排斥した。朝鮮では、高麗朝(918年~1392年)が仏教を国教としていたために、代わった李氏朝鮮(1392年~1910年)は儒教を国教として、仏教を徹底的に弾圧した。
韓国の骨董屋を覗くと、ほとんどの古い仏像の頭が切断されて、頭か、胴しかない。李朝時代に、仏教は山のなかに逃れたから、平地に寺が残っていなかった。
仏教僧は賤民として、扱われた。韓国の仏教は日本統治時代になってから、復活した。
ところが、日本では神儒仏が折衷して、それぞれが独立を保ちながら習合している。一方、中国も朝鮮も、ヨーロッパと同じような、排他的な文化である。
仏教が大陸から日本に、朝鮮半島を通じて伝えられると、仏教も多神教だったから、日本人にはあまり違和感がなかったのだろう。だが、日本人は人間の形をした神体である仏像をはじめて見て、びっくりしたにちがいない。
日本では、韓神、新羅神、漢神、漂着神などの夷神が、排斥されることがなかった。
それまで日本人は、万物すべてが「千万神」「八百万の神」であって、山や、石や、大木を、みな神とみなして拝んでいた。山や、森を、神が降りてくる場所として信仰した。いまでも地方へゆくと、男女の性器を連想させる石や岩が、ご神体として祀られていることが珍しくない。
日本では、多くの家に神棚と仏壇が同居している。だが、誰もそれを不思議に思うことがない。
神々が仲よく、共生しているのだ。今日でも、日本人はこの世のことは神に、あの世のことは仏に頼んで、若い男女が結婚式をキリスト教のチャペルで挙げるというように、神々の棲み分けを行なっている。
私はこのような風習を、けっして軽佻浮薄だと思わない。日本人にとって、神々にはそれぞれ備わった霊威があって、ご利益を授かれるのだ。
ほとんどの日本人が、外国人から「あなたの宗教は何ですか?」とたずねられたら、すぐに答えることができないものだ。私はこれこそ、日本人の長所の一つだと、思う。
ジョン・レノンはなぜ神道に惹かれたのか 一章 ジョンが何よりも愛した日本語のことば
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