トップページ ≫ 外交評論家 加瀬英明 論集 ≫ いつも相談ばかりしている日本の神々
外交評論家 加瀬英明 論集
日本人は神が山に棲んでいると、みなした。だから、山の神という。稲作に取り組むのには、神の協力が必要であると考えた。
春の初めに神が里に降りてきて、作神(さくがみ)である田の神となった。そして、晩秋から初冬にかけて、山へ戻って、山の神となった。
神道には、もともと神殿がなかった。常緑樹(ひもろき)や、自然岩(いわくら)が、神の座であると考えられた。
山や森が神なら、そこに棲んでいる鹿も、猿も、狐も、すべての動物も神だった。
日本では人と神のあいだも、人と人の自他の区別も、はっきりとしていない。
宗教は神道も含めて、文化に属している。
キリスト教の『旧約聖書』(ユダヤ教の聖書でもある)は冒頭の「創世記」で、「神は御自分にかたどって人を創造された」(「創世記」1-27)と、述べている。私はそれよりも、人が自らの姿に似せて、それぞれの神をつくったというほうが、正しいと思う。
「創世記」の〈エデンの園〉は、「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた」(3-8)と、描かれている。神も、まるでディズニー映画に登場するように、擬人化されている。
神のありかたは、それぞれの民族の生きかたを、なぞらえている。
ユダヤ教からキリスト教が派生し、七世紀に入って、この二つの宗教からイスラム教が生まれた。イスラム教の神は「アラー」と呼ばれるが、ユダヤ教、キリスト教の主神と同じ神である。
この三つの宗教は、同一神についての三部作である。イスラム教は、ユダヤ教とキリスト教の聖書を聖典として認めているが、アラーが預言者モハメッドに告げた言葉を記した『コーラン』が、神が人に告げた最後の言葉だとされ、協議のおきての集大成となっている。
一神教の神は、自分をたえず称えることを要求し、人々を独裁者のように絶え間なく監視して、人々の心や、生活の細かいところまで、干渉する。
日本の神々は「神議(かむはか)る」といって、いつも相談ばかりしている。「独裁者」も、「指導者」も、明治に入るまで日本語になかった明治訳語である。
一神教の神は、能動的だ。ダイナミックに動きまわる。そして、人に干渉する。
ダイナミックの語源は、ギリシア神話の「デュナミス」という神格から生まれている。だが、日本の神々は、杜のなかで鎮まっていらっしゃる。
私は海外において、しばしば日本文化について講演することがあるが、困ったことに、ヨーロッパ諸語に「神が鎮まっている」という言葉がない。そのために時間をとって、しばらく説明しなければならない。
私たちは依代(よりしろ)を用意して、神をお招きする。依代は招き寄せられた神が、そこに乗り移られると考えられ、新年にあたって家の玄関や店頭にたてる門松や、松飾りが、それに当たる。
そして、神をお迎えしたあとで、お帰りいただく。
仏教も、日本に渡ってくると、日本に同化した。位牌は、依代である。日本では人が死ぬと、魂が山に宿るものと考えられた。だから人が死ぬと、魂をお坊さんに送ってもらう。死者はやがてご先祖さんとして、個性を失った霊体に化して、子孫を守り繁栄を約束してくれる。そしてお盆になると、霊が戻ってくる。
仏教は朝鮮半島を経て日本に渡来したが、韓国では仏教徒の家に仏壇もないし、家に位牌も置かれていない。位牌は家に置かずに、寺に預けるものだ。お盆に死者の魂が、家に帰ってくるという信仰もない。
天皇も皇居の杜のなかで、鎮まっておられる。私たちは鎮まっておられる神々や、天皇にご心配をおかけしないように身を律して、正しく生きることが、求められている。
日本では生きている人が、中心になっている。
柏手を打つのも、日本だけだ。鎮まっている神の注目を、ひくためだ。ところが、一神教の神は日本の神々と違って、お帰りいただくことができない。
推古天皇十二(604)年に、聖徳太子によって発布された『十七条憲法』が、「和を以て貴(たっと)しと為す」から始まっていることは、よく知られている。
この『十七条憲法』は世界最古の民主憲法であるが、十条は「人にはその人なりの思いがあるから、自分の考えと違うといって、怒ってはならない。相手が正しいとすれば、自分が非となり、自分が正しいとすれば、相手が非となる。自分がかならず正しいということはなく、相手がかならず愚かだということはない」と、諭している。
十七条は「重要なことは、ひとりで決めてはならない。大切なことは、全員でよく相談しなさい。全員で合意したことは正しい」と、説いている。
このようなことは、儒教を統治思想とした中国や朝鮮では、考えることができない。
一神教の神は唯一神と呼ばれるが、自分だけが正しいという絶対神である。
イスラム教の聖書である『コーラン』は、神の言葉を「真理(まこと)」「真実(まこと)」と呼んでいる。神を真理とか、真実という言葉によって置き換えたとすれば、それ以外の真実は、いっさい認められない。一神教は、独善的なのだ。キリスト教は”愛の宗教”だといわれているが、和をともなわない愛である。
日本の社会は、和のうえに築かれている。
ジョン・レノンはなぜ神道に惹かれたのか 一章 ジョンが何よりも愛した日本語のことば
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