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60歳を過ぎても変わらぬ優美さでテレビCMや婦人雑誌に登場するいっぽうで、10代で出演した映画の鮮烈なヌードシーンが今もたびたび写真週刊誌などに掲載される。女優・高橋(旧姓・関根)恵子さんは時代を超えて輝き続けている。
中学生の時に映画の大映からスカウトされ、1970年の卒業と同時に入社。デビュー作『高校生ブルース』では15歳で主役、ヌードシーンもあった。続いて『おさな妻』『遊び』など立て続けに主演するが、1年半で大映は倒産。東宝に移籍し、テレビドラマにも出演するようになる。
しかし、1977年春に自殺未遂、その後、岐阜の山村で農耕など自然に触れる生活を送る。2年が過ぎ、山村を出て仕事復帰することになり、1979年7月の舞台出演が決まるが、演技に対する恐怖感から、直前にタイのバンコクに逃亡。11月に帰国し、謝罪会見まで開かれ、1年間の謹慎。岐阜の山村暮らしもバンコクに逃亡も男性と行動を共にした。1982年、映画『TATTOO<刺青>あり』で高橋伴明監督と出会い、結婚、高橋姓になる。結婚も周囲から「何か月もつか?」と言われたが、2人の子供、さらに孫にも恵まれ、現在に至る。
その結婚から2~3年過ぎた頃、出版社で書籍の編集をしていた私は、彼女の自叙伝に取り組んでいた。高橋監督の友人を介して話が進み、監督とは新宿のゴールデン街で、恵子さんとは当時の住まいがあった経堂で会った。彼女との初打ち合わせの時の記憶は今も鮮明だ。
私と編集スタッフを前に静かな口調で語り出したのは彼女の悲しい性体験のことだった。強く拒否したのに、心ならずも体が反応してしまったという。この初体験が原罪のようにずっと自分につきまとっていて、これを抜きに自分を語れないというのだ。当方としても彼女の波乱の人生を包み隠さず語ってもらおうと依頼するつもりだったが、彼女のこの話を聞き、それは言わずもがなかと思えた。
当初、彼女の話すことをもとにライターが原稿にまとめるという手順を考えていたが、本人は自分で書くことを希望した。そこでスタート時は執筆に専念できるように、都内の旅館の部屋を用意した。
翌日、陣中見舞いに行くと、原稿が数枚できていた。北海道の釧路から東京に出てきた日のことが書き出しだった。ゴム長靴をはいていたら、街では誰もはいていなくて恥ずかしかったことが淡々と書かれていた。
旅館を出てからは家で書いていたはずだが、ある日、委託編集者から「大変なことになりました」との電話があった。執筆は続けていたが、様子が変だという。物思いにふけったままで、家事も手につかない。家には小さな長女もいるのに。夫の伴明さんは「これではたまらない。ともかく原稿はストップだ」と言っているそうだ。
ひとりで過去を回想するうちに、いろいろな思いが渦巻き、心を制御しきれなくなったようなのだ。出版契約書も彼女とかわし、編集局でも注目された企画だったが、無理押しはできず、何とも後味の悪い幕切れとなった。
高橋夫妻については新宗教の真如苑との関係が知られている。もともと仏教に関心のあった二人だが、結婚直前に一緒に入信した。信仰を持つことで、女優であることへのこだわりを捨てることができ、自分のことを考える前に他者のことを考えるようになれたと語っている。
人間、変われば変わるものである。私が原稿依頼した時は入信していたわけだが、まだ関根恵子時代のマグマが完全に鎮静化していなかったのだろう。
山田 洋
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