トップページ ≫ 外交評論家 加瀬英明 論集 ≫ ヨーガが目指している真の境地とは
外交評論家 加瀬英明 論集
ヨーガも、インドで生まれた。呼吸を整え、さまざまなポーズをとることによって、精神統一をはかる修行法である。
インダス文明の遺跡のなかに、ヨーガを行なっている人の像がある。この像はヨーガが、バラモン教が生まれるよりも、はるかに前から行なわれていたことを示している。
インダス文明は、インダス川流域を中心として、インド大陸で紀元前2500年から、紀元前1000年代後半にわたって栄えた、インド最古の文明である。
今日、日本や、アメリカをはじめとする先進社会では、ヨーガはアスレチック・クラブやヨーガ教室で、健康法や美容術として、流行している。
私たちは何ごとについても、金や、健康と結びつけてしまう時代に生きているが、本来、ヨーガは精神修養を目的としたものである。
ヨーガの目的は、自分を忘れて、私心から離れることにある。ヨーガは欲望や我執を捨てる技であるが、さまざまなポーズがある。体にとっても、精神にとっても、困難なものだ。
ヨーガはバラモン教の時代、あるいはそれ以前から行としてあったもので、「グル」(指導者)が一定の試験期間をおいて、資格をみたした者のみに、伝授したものだった。
ヨーガは行を通じて精神を統一し、妄念を払って、心を空(くう)にする法として、編みだされた。
ヨーガを修める者は、まず「アヒムサ」(無害)でなければならなかった。
蚊や、虫でさえ、殺してはならなかった。つねに人に謙虚に、優しく接して、貪ったり、他人を怒らせてはならなかった。そのうえで、グルがはじめて修行を行なうことを許した。
私たちは日常生活のなかで、自分を中心に置いて生きているために、愚痴をこぼしたり、人を妬むことによって、心を散乱させて、惨めになっている。
ヨーガの教えは、私という歪んだレンズを通して世の中を見ると、自分だけでなく、周囲を不幸にするという考えが、基本となっている。
「ヨーガ」は、サンスクリット語で「くびき」を意味している。軛(くびき)は牛馬の頸にかける横木だ。古代インドでは、、馬に戦車を牽かせて戦った。ヨーガが、我執に対する闘いであることから、軛(ヨーガ)をシンボルとしたのだった。
釈迦も、人が到達すべき境地として、解脱すべきことを説いたが、『ヴェーダ』の賢人たちの流れを汲んでいる。
解脱は、人が人間生活にともなう、あらゆる苦悩を迷妄がもたらす束縛から解放されて、完全に自由になる境地を目指している。だが、迷いや苦しみは、世俗に生きる者の心の属性だ。
解脱することを、サンスクリット語で「ヴィモークシア」という。初期の仏典は、世俗的な価値観にとらわれて生きている者を、「愚者」と呼び、出家して瞑想し、修行することを通じて、「賢者」となることができると教えている。
釈迦も、瞑想した。解脱はその境地に入るために、他人に頼ることなく、自分の力で行なうものである。自分の外にある権威に頼ることは、自己責任を放棄することだ。
釈迦は、すべての人に仏性(ぶつしょう)が具わっていて、それをひきだすことができると、教えた。そして、解脱は頭で考えることによってもたらされるものではなく、瞑想によってのみ得られる、と説いた。この教えは、ヨーガの延長のうえにある。
人は自分について思い煩うことによって、自らを苦しめる。私心を去ることが、大切なのだ。
瞑想は、沈黙である。心から言葉の邪(よこしま)な炎を、消し去ることだ。
言葉は妄念から、発せられることが多いから、有害なものだ。人は生活のために、言葉を欠かすことができないが、言葉は利己心から発するエゴを主張するのと、言い訳のためにもっぱら使われるから、人はできるだけ寡黙であることが望ましい。
瞑想は、言葉を斥(しりぞ)けることである。言葉は不幸や、苦しみを運んでくる荷車だ。
ジョン・レノンはなぜ神道に惹かれたか 三章 インドで考えさせられたこと
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