トップページ ≫ 外交評論家 加瀬英明 論集 ≫ 海外に出ると警戒される日本人の宿命
外交評論家 加瀬英明 論集
私はインドで多くの友人を、つくった。インド人の友人の自宅に招かれたパーティの席上で、偶然、宗教学の教授と会った。そこで、『ヴェーダ』や、ヨーガや、瞑想について、しばらく質問した。
すると、私の質問に辟易したのか、「瞑想も、ヨーガも、インドの耐えられない暑さから生まれたものですよ。ひどい暑さから逃れるために、編みだされたのです」といって、笑った。私は「ありがとう」と、礼をいった。
友人の家を出たら、もう真夜中近かったのに、昼間の暑さが去っていなかった。
インド人は、饒舌だ。自己主張が強い。その反動として、ヨーガや、瞑想が生まれたのではないかと思うほどである。
インドも、ヨーロッパと同じように、多くの民族と異なった言語によって、構成されている。
そこで、相手の素生や、考えを知らなければならないから、饒舌にならざるをえなかったのだろう。
異民族と接触すると、体験も感性も違うから、互いに言葉を多く使わなければならない。
ゲーテ(1749年~1832年)に、『ヘルマンとドロテア』という作品がある。
主人公と、戦乱から逃れてきた乙女の恋愛の物語である。ヨーロッパでは戦乱によって、人々が国境を超えて行き来した。異民族のあいだでは、物の尺度が異なってくる。以心伝心を期待してはなるまい。
西洋人も、のべつ幕なしに話すので、私たちはじきにくたびれてしまう。二匹の犬が出会って、安心できるまで、尻を嗅ぎ合うようなものだ。
まるで、話す機械のようだ。不信のうえに築かれた社会であるからだ。インド人や、中国人が饒舌であるのも、そのような事情がある。
ところが、日本では多弁であると、品性を欠いているとみられて、警戒される。
日本語は、世界諸語のなかで、話し手を抑制する力が、もっとも強く宿っている言語である。ドイツ語、イタリア語、スペイン語などのヨーロッパ諸語や、中国語、韓国語は、話しているあいだに話し手を酔わせ、しだいに精神を高揚させてゆく。日本語では、このように絶叫したら、滑稽になる。雄弁を振るいにくい。
日本人は海外へ出ると、寡黙であるために、いったい何を考えているのか、何か企んでいるのか分からないといって、警戒される。そればかりか、寡黙であるのは、礼儀に反するとされてしまう。
私はアメリカの親しい閣僚に、「どうしてアメリカ人は日本人よりも、中国人に惹かれるのでしょうか」と、たずねたことがある。
すると、「中国人のほうが、論理的だからね。われわれと意思が通じあえるけれど、日本人は口を開かずに、沈黙していることが多い」と、いった。
他民族と接触していると、感性は相手に通じないから、論理を使って交流しなければならない。
日本では自己を主張することを、できるだけ慎む。互いに譲り合って、相手と心を通じさせようとする。相手に察してもらおうとする。日本人ははじめから信頼し合って、相手に対して安心しているからだ。私たちは、心の民なのだ。
ジョン・レノンはなぜ神道に惹かれたか 三章 インドで考えさせられたこと
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