トップページ ≫ 外交評論家 加瀬英明 論集 ≫ 柏手を打つという日本独自の習慣
外交評論家 加瀬英明 論集
あらゆる神に祈るというのは、真っ当なことだと思う。
あるとき、ガンジーはアメリカ人の熱烈な崇拝者から、「ヒンズー教に改宗したい」という申し出を受けた。
すると、ガンジー翁は遮って、「いや、あなたはキリスト教のままで、いらっしゃい。ヒンズーに帰依するのも、キリスト教の神に祈るのも、同じことです」と、諭した。
ニューデリーの都心から離れたところに、ガンジー廟がある。ガンジーの遺灰が、収められている。私はインド政府の係官に案内されて、ガンジー廟を参拝した。ガンジー財団の幹部も、いっしょだった。インド国内でテロが頻発するようになってから、政府の許可を得た者しか、廟のすぐ前まで行くことができない。
私は廟の前まで進むと、神道の様式で参拝した。ゆっくりと二礼してから、二回間を置いて柏手を打って、一礼した。二礼二拍手一拝である。
案内してくれた人々に、神道の神々に詣でる時の作法であることを説明すると、喜んでくれた。
そして、「これまで、日本の首相や、政治家を案内したことがありますが、みな、一礼されたうえで、合掌されました。なかには、ポケットから数珠を取り出して、手にからめた方もおられました。仏教の様式だということでした」と、いった。
日本人は寡黙で、鎮まっている。私を抑えて、自制する文化である。
私は柏手を打つことによって、鎮まっておられる神の注目をひく方式を、好んでいる。
私たちは日頃、気がつかないが、日本は1億2000万人という人口を有しているにもかかわらず、国民が互いに同質であると、これほどまで感じている国は、世界のなかで珍しい。
イギリスで北部出身の人に出会って、「あなたはイングリッシュマン(イギリス人)ですか?」とたずねたら、「いや、スコットランド人です」といって、すぐに正されることになる。
イギリスではサッカーチームが、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドと分かれている。正式の国名も、「ブリテン連合王国」である。「イングリッシュ」というと、イングランドだけを指していることになる。
スペインであれば、カタロニア人、バスク人は、それぞれ自分たちがスペインと違った、独自な文化を受け継いでいると思っている。
ドイツは国名がドイツ連邦共和国であるが、いまでも歴史的な、独自の地域意識が強い。文字通りの「ブント(連邦)」なのだ。イタリアについても、同じことがいえる。
日本では全国民が、同じ日本文化を分かち合っていると、感じている。130年あまり前まで、300以上の、国とも呼ばれた藩に分かれていた。明治が終るころまでは、旧藩に対する帰属意識が強かった。
それにもかかわらず、明治に入ってからしばらく琉球王国であった沖縄と、アイヌ民族を除けば、地方の固有の文化を持っているという意識が払拭されて、一体感が生まれるようになった。
いまでも、出身地をたずねる時に、「お国はどちらですか?」といってきくが、国という言葉が表現としてだけ、のこっている。
それでも、出身地方に対するお国自慢が保たれているが、日本人としての一体感がもたらされたのは、やはり和の力が強く働いたからだった。
礼拝する時に、柏手を打つのは、日本だけみられる所作である。他のアジアの国にはない習慣である。
宴席や集会が終わりに近づくと、「皆さん、お手を拝借します。これから、手締めを行います」といって、場を締めることがある。
三本締めとか、一本締めがあるが、全員がそのあいだ心を空にして、私心を無にして一体になる儀式である。日本だけの独特なしきたりである。
全員が、そのあいだ何も考えずに、自我を消し去って、心を一つにして合わせるものだ。私たちは雑念を払って、心を合わせることができるのだ。
これは、宗教的な所作ではない。だから、かりに首相官邸で行なったとしても、憲法の擁護派から、政教分離の原則に反するといって、訴訟を起こされることはない。社民党や、労組の会合でも、行なわれていることだ。
手締めは、素晴らしい習慣だ。私は手締めを行うたびに、ああ、自分は日本人なのだということを、実感する。
ジョン・レノンはなぜ神道に惹かれたか 三章 インドで考えさせられたこと
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