トップページ ≫ 社会 ≫ あるヒットメーカーの驚異の大変身
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夜のBS放送は各局とも昭和レトロもののオンパレードだ。私を含め、昭和の時代を長く生きてきた者にとっては、地上波のバラエティ番組よりしっくりするのは確かだ。先日、BS朝日の「昭和偉人伝」(水曜21~22時)では歌手の三橋美智也の特集だった。生涯に約2500曲をレコードに吹き込み、総売り上げ枚数は1億枚を突破し、史上最高を記録している。ミリオンセラーも18曲持っていて、最後になるのが昭和37(1962)年に発売された「星屑の町」だが、このカントリーウエスタン調の曲の作曲者、安部芳明さんは非常に印象深い人だった。
昭和40年代後半、週刊誌の編集部員だった私は、部の先輩から安部さんとの会食に誘われた。先輩は芸能界に顔が広く、安部さんとも親しかった。どこかで食事をしたが、さすがヒットメーカー、颯爽としていた。物腰も洗練されていて、私のような若輩にも優しく対応してくれた。この後、赤坂にあったホテルニュージャパンの地下のナイトクラブ、ニューラテンクォーターに繰り出した。この店は卓数300、従業員200人以上という大きさで、内外の一流エンターテナーによるショーが楽しめる国際的社交場として知られた。
安部さんを先頭に3人が店に入ると、従業員たちの視線がこちらに集まっているのを感じた。席に着くや、多数のホステスがさっと他の席から移ってきた。彼はVIP待遇だった。この店の勘定は彼持ちと聞いていたが、料金が高そうなので飲みながらも気掛かりだった。店を出る時は、ホステスやここに居合わせた彼の知人も合流して他の店へ向かったので、こちらは見送ることにした。
彼の豪快な遊びっぷりは有名だったらしく、影響を受けて派手なナイトライフにはまった人が私の周りにも2人いた。やがて共に借金で首が回らなくなってしまった。BS朝日の番組によれば「星屑の町」は三橋美智也の歌の中でもトップクラスの大ヒットで、レコード売り上げは270万枚という。この印税があればこそ、豪遊が可能だったのだ。この曲以外は大ヒットはなかったようだが、あの生活をいつまで続けていたのだろうか。それを調べたら、また驚いた。
「毎夜のごとく遊び尽くすうちに虚しさを覚え始め、中国4000年の知恵と統計学で生まれた気学を本格的に研究し始める。その結果、46歳(昭和51年頃)の時、芸能界でこのまま生きることに疑問を感じ、母の生地の青森に移り、神社仏閣を巡る修行の日々を送る」と人生を振り返っている。やがて、遊びの体験から懺悔することを学び、気学の教えから感謝の大切さを知ったそうだ。幸せをつかむための指南書を数多く著し、2万人近い人が彼の教えを受けてきた。「週刊新潮」の2015年11月19日号によれば、亡くなった大スター高倉健とは30年来の交遊があって、運気の良い方角を記して伝えたり、人生訓となるものを毎月のように送り続けていたという。
豪遊にしても、180度の大転換にしても、安部芳明さんの生き方はやはり真似できそうにない。
山田 洋
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