トップページ ≫ 社会 ≫ 人の心をとらえ続けた死刑囚(上)
社会
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座間市のアパートで9人の遺体が発見され、世間を震撼させている事件により、20年前に死刑執行された連続殺人犯をはからずも思い起こすことになった。1968年10月から11月にかけての1か月足らずの間に、東京、京都、函館、名古屋で警備員やタクシー運転手がピストルで射殺された。半年後、犯人は自殺に失敗した後、早朝の明治神宮近くで警察に職務質問され、逮捕された。
犯人は永山則夫という19歳の少年で、犠牲になった4人とは何の縁もなかった。北海道網走町に生まれたが、父親はバクチに明け暮れて家を去り、一家は極貧状態になる。則夫は4男4女の7人目で末弟だった。母は故郷の青森県板柳町に移るが、交通費が足りなくて子供4人が置き去りにされ、その中で則夫が最年少だった。半年後の1955年の春、地元の民生委員が4人の惨状を目にしたことから町役場が動き、全員が母親のもとに送られた。以来、則夫は母に捨てられたという意識が強く残った。
彼が中学2年のとき、父が岐阜県で野垂れ死にするが、この頃から登校拒否が目立つようになる。母は行商をして生活費を稼いでいて、子供たちの面倒を見る時間はなかった。母のいない間、家は子供たちだけになり、則夫は兄たちのリンチにあった。逃げ場を求めて家出を続けたが、いつも失敗した。形だけの中学卒業をし、集団就職で東京に出てきてからも転職を繰り返す。
そんな彼が逮捕後、東京拘置所において初めて自分の時間を手にし、取り組んだのは読書だった。東京の夜間高校に入学したこともあり、もともと向学心はあった。読書によって得た知識をもとに、自分の気持ちをノートに書き始めた。
彼の逮捕の翌年、1970年後半だったはずだが、週刊誌の編集部員だった私は、その永山ノートを誌上公開してもらうという企画を担当した。取材記者にも同行してもらい、今の池袋サンシャインシティの場所にあった東京拘置所の彼を訪ねた。所員に付き添われて私たちの前に現われた彼を見て驚いた。顔も体も中学生ぐらいにしか見えず、憑かれたように何か口走っていた。声がかすれて聞き取りにくかったが、過激な左翼用語が混じっていた。こちらの顔を見ようとせず、取りつく島もなかった。彼の様子を見て、永山ノートの話も疑わしく思えてきて、記者と相談して取材を打ち切ることにした。
翌年の3月に永山則夫の『無知の涙』が合同出版より刊行された時は仰天した。面会時のあの態度は私たちを欺くためだったのか。当時の彼は、家族にも付きまとって取材攻勢をかける週刊誌の面々に敵意を抱いていたことも確かだった。
『無知の涙』は誤字も多く、文章は生硬だが、読む者の心をとらえる迫力に満ちていた。哲学やマルクス主義の本を読み漁ったこともあって、自分が社会の最下層に置かれ、差別や抑圧を受けたために犯罪に走ってしまったと、社会を糾弾したのだ。当時の日本は全共闘運動が高まり、反体制的な考えに共鳴する若者は多く、この本はベストセラーになった。中学校も満足に行ってなかった永山が獄中での独学でこれだけの内容を書いたという驚きもあった。
しかし、彼が法廷で「貧困と無知による犯罪」として反抗的姿勢を取ったことで、「改悛の情が認められない」として、1979年7月、東京地方裁判所は死刑を言い渡した。弁護団はすぐ東京高等裁判所への控訴手続きを取り、1年後に控訴審が始まった。
山田 洋
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