トップページ ≫ 社会 ≫ 小津映画の名助演者は埼玉訛りに悩んだ
社会
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4月にリニューアルオープンした浦和の埼玉会館で、年間企画として「埼玉が生んだ女優 三宅邦子~小津安二郎監督作品選~」が開催され、12月21日、22日の『秋刀魚の味』(1962年 松竹・以下同)の上映で幕を閉じた。4月の『東京物語』(1953年)で始まり、『晩春』(1949年)、『秋日和』(1960年)、『麦秋』(1951年)、『お早よう』(1959年)と、三宅邦子出演の小津監督作品が不定期に上映され、5月と12月には小津映画にくわしい映画関係者のトークショーもあった。
作品タイトルからも感じられるように、小津作品は何か温かい情感があって、刺激の強い映画とは違った感動を人に与える。それは日本だけでなく、海外でも高い評価を得ている。庶民の家庭と愛情を描いたものが多く、出演者は喜怒哀楽を表面に出すのではなく、感情を抑え、説明的ではない演技が求められた。男女の愛よりも親子の情がメインになることが多い。主役は2年前に95歳で亡くなった原節子が多かったが、三宅は笠智衆らとともに小津映画に欠かせない助演者だった。
埼玉会館が「埼玉が生んだ女優」と銘打ったように、彼女の生家は江戸時代から続く岩槻の「料亭 ふな又」というウナギ料理の老舗だ。1916年生まれで6人兄妹の末っ子。県立久喜高等女学校に進み、卒業後、東宝劇団に入るが、1年で退団し、松竹に移る。スラッとした長身でスタイルのよさは人目を引いたが、本人はノッポがいやだったという。
小津作品に初出演したのは『戸田家の兄妹』(1941年)で、山の手の奥さん役。当時、この役柄が似合うのは彼女しかいなかったと言われる。ただ、この時、本人はまだ独身だった。
元・東京大学総長の仏文学者で映画評論家でもある蓮實重彦は、三宅と小津映画のカメラマンだった厚田雄春との鼎談(1984年)で、「小津監督は三宅さんに特別なものを感じてらしたと思うんです。目の動きだけで演技をなさるとか」と言って、『晩春』で喋ることなく会釈する場面や、『お早よう』で子供を叱るのに声でなく目による怒りの表現を絶賛する。厚田はカメラを通して見た彼女の歩き姿がとてもきれいだったと回想している。
「ぼく自身、相当好き嫌いが強いほうだ」という小津監督は三宅について「あの人は演りすぎないからいい。喜怒哀楽のゆっくり出る人、なんかこう、ドタッと育ったという感じで、鷹揚で品がいいから好きだ。人間も大変いい、コセコセしてない、女佐分利(信)といったところだ」(1952年 映画雑誌のインタビューより)と語っていた。演技にはうるさかった小津監督だが、彼女は撮影前の本読みがこわかったという。「わたくし、訛りがありましたの、埼玉の。それをいつも直されますから。ああ、また注意されると思うと台詞にならないんです、吃っちゃって」と蓮實、厚田との鼎談で語っている。このような語り口からも上品でおっとりした人柄が感じられる。
実は、彼女の兄の娘さんが筆者の旧友の夫人だ。いつか「叔母さんは私生活でもあの感じですか?」と聞いたら、「全然違いますよ」と笑っていた。やはり優れた「演技者」だったようだ。(文中敬称略)
山田 洋
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