トップページ ≫ 社会 ≫ 浅草を愛した2人の好色一代(その2)
社会
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いっぽうの広岡敬一さんは、中国で生まれ育ち、学徒兵として陸軍の航空隊に配属され、中国大陸を転戦、最後は写真班で特攻隊員たちを撮影していた。ここで写真技術を学んだのが後に役立つ。
戦後の1947年に帰国、生きるために立川で外国タバコ専門の闇屋を始めるが失敗し、アメリカ進駐軍の対日宣伝機関の写真部員に。16ミリ映画の現像処理をしていたが、浅草見物の際に吉原のネオン街に足を踏み入れたのがきっかけで方向転換、ここで働く女性たち相手の流しの写真屋になった。当時、カメラを持っている人は稀で、商売は順調に行った。吉原の人たちから仲間扱いされ始め、女性たちから相談事や悩みを持ち掛けられるようになった。それ以上の付き合いになった相手もいた。
その後、夕刊紙の芸能記者、浅草のストリップ劇場のカメラマンを経て、週刊誌の記者となり、トルコ風呂(ソープランドの旧称)の取材に手を染め、浅草、吉原との縁は深まっていく。売春防止法により吉原の火はいったん消えたが、やがて一大トルコ風呂地帯として復活していたのだ。
広岡さんがいた週刊誌に私も編集部員として配属された。記者が取材して書いた原稿をもとに、こちらが筋立てを作り、リライト専門のライターに最終原稿を仕上げてもらうというシステムになっていた。一匹狼がそろっていた記者の中でも彼は異色だった。軟派系記事専門で一見して不良オジさんという雰囲気だった。この記者とチームを組むことはあるまいと思っていたが、なぜかある時期、彼の取材によるトルコ風呂探訪記の編集担当になった。この記事が好評だったこともあり、広岡さんのお風呂取材に拍車がかかった。
私がグラビア担当に変わり、やがて人事異動で転部するが、広岡さんは色モノ取材に専念、ついには他社の創刊週刊誌にスカウトされることになる。仕事場は違っても一緒に酒を飲む機会は多かった。その際、「これまで積み重ねた取材を本にまとめてみたら」と勧めたが、ためらっていた。内容が内容だけに、同居する両親や妻子に気兼ねしていたようだ。
それが吹っ切れたのか、1978年の『トルコロジー』(晩聲社)を皮切りに、続々とトルコ風呂がテーマの本を刊行する。1984年刊の『泡
の天使たち』(講談社)の前書きに「面接取材したトルコ嬢は12年で2500人」とあるから、その後の人数を加えたら4000~5000人になったかもしれない。
著書はトルコ風呂だけにとどまらず、その前の赤線時代の吉原や浅草ストリップを描いたものもある。そこではかつて撮りだめた女性たちの写真がふんだんに使われていて、妙にリアルだ。
このように吉村平吉さんと広岡敬一さんは共通する部分も多いのだが、意外なくらい2人の接点は少ない。互いに同業者として敬遠し合うところがあったのだろう。
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