トップページ ≫ 社会 ≫ デヴイ夫人に恐いもの無し (2)
社会
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クーデター計画はずさんだった。軍の最高責任者を取り逃がし、丸1日で鎮圧された。さらにこの計画の陰にインドネシア共産党があるとの世論を高まらせてしまった。
この事件には謎が多いのだが、直後のスカルノ大統領の判断にはデヴィ夫人も疑問を抱く。共産党への憎悪が高まる国民の声に耳を貸すべきとする夫人に対し、国民は軍部にあおられ、利用されていると見る大統領。事件後、官邸に入らず、共産党勢力が強い場所にとどまり、打つべき手を打たなかったのが事態を悪化させた。夫人は自分だけは陸軍主流派の情報をつかまなければとの思いから、信頼できると判断した人々と極秘裏に連絡を取り合う。
大混乱の中で急浮上したのがスハルト少将だった。彼より上位の軍人たちのほとんどがクーデターで殺害されてしまったので、事件の2週間後には陸相・陸軍司令官に就いた。デヴィ夫人も当初、彼を支持し、大統領に彼との接触を勧めていた。しかし、本人も反省しているように甘い考えだったようだ。以降、彼は大統領を徹底的に追いつめる。翌年3月には政権をスハルトに移譲する命令書に無理矢理署名させられた。
結果的には9月30日からの一連の事件はスハルトの権力掌握のためのお膳立てのようになった。彼は陸軍将軍たちとクーデター勢力の両方の動きを知っていて、自分の出番チャンスを狙っていたとの見方もある。さらに事件の裏に米国CIAや中国共産党の暗躍さえもささやかれている。
権力を握ったスハルトは共産党系の人間の大虐殺を実行し、犠牲者は一説には100万人以上とされる。経済発展に力を入れたが、反面、ファミリー企業を富ませ、32年の治政の間に不正蓄財は莫大なものとなった。
権力を失ったスカルノだが、デヴィ夫人との間に子供を授かる。彼の要望もあり、1966年11月、夫人は出産の安全のために妊娠6か月で里帰りし、女の子を産んだ。しかし、祖国ではジャーナリズムの集中砲火が待っていた。週刊誌は過去のことを根掘り葉掘り書きたてたが、作り話が多かった。対抗上、一部週刊誌の卑劣な手口を暴き、真実を明かそうと、手記を書いて出版社に持ち込んだ。内容があまりに攻撃的だったので、同業者の非難はできないと、どこにも断られた。
その中で、「手記をもとに再構成して半生記のようなものなら」と提案してくれたのが『週刊現代』だった。こうして1969年11月から同誌で連載が始まった。偶然ながら、翌12月にこの週刊誌編集部の一員になった私は、彼女の手記が大変な反響を呼んでいたのを記憶している。
1970年6月、パリにいた夫人にスカルノ危篤の報が入り、すぐジャカルタに向かった。まさに決死行で、膝には3歳3か月になった愛娘が乗っていたが、もし娘に危険が及んだら自分の手で殺す覚悟をしていた。紆余曲折の末に何とか3年半ぶりに会えた夫は死と最後の格闘中で、翌朝、息を引き取った。悲嘆のどん底の中で救いだったのは、彼女と娘をインドネシア国民が温かく迎えてくれたことだった。沿道でも歓声が上がるのを聞いた。
デヴィ夫人は自伝を2冊(1978年・文藝春秋 2010年・草思社)刊行しているが、数奇な人生を具体的エピソードを多数盛り込んで描いている。スカルノとの愛と9・30事件についての記述が最も多いが、かかわった人たちの善意や裏切りについては実名を出してリアルに表現している。彼女の証言はインドネシア史の研究書にも頻繁に引用されている。
先日、デヴィ夫人が応援しているラテン歌手・川奈ルミさんのミニコンサートがさいたま市中央区の本町通りの「カフェギャラリー南風(みなかぜ)」で開かれたが、超多忙の中を東京から駆けつけてくれた。思ったことをズバズバ言い、向かう所敵無しのような彼女だが、義理固く優しい人でもある。
山田 洋
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